第306話:世界樹の木陰と、小さな約束
魔族領で緊迫した空気が流れているであろう、その一方で。
遠く離れた公爵邸の庭には、どこまでも穏やかな昼下がりが訪れていた。
すっかり元気を取り戻した世界樹が、太陽の光を浴びて青々とした葉を茂らせている。その大きな根元に腰を下ろし、療養明けのアレンが羊皮紙に向かって羽ペンを走らせていた。
「アレン、お疲れ様です。少し休憩にしませんか」
隣に腰を下ろしたセリアが、湯気の立つ温かい紅茶を差し出しながら、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、セリア」
アレンは羽ペンを置き、そっとカップを受け取った。ダークエルフとの戦いで負った傷は、エリーゼの回復魔法とセリアの献身的な看病のおかげで、もうすっかり癒えている。
「何を書いているのですか?」
セリアが、彼の手元の羊皮紙を覗き込む。
「ヘンドリック様たちが帰ってきたら、見せられるようにと思ってね。この屋敷の、平和な日常の記録だ」
アレンが少し照れくさそうに笑った。そこに綴られていたのは、世界樹の観測データのような無味乾燥な記録ではなかった。
エリーゼが世界樹の世話を焼く姿。サンネが朝から剣を振る音。ミラの尻尾が揺れる様子。土の精霊たちのいたずらと、ベルナデッタの制裁。ささやかで、けれど何より温かい、この屋敷の毎日そのものだった。
「……素敵ですね」
セリアが、目を細めて呟く。そして、少しだけ声を落とした。
「私、この屋敷に来る前は……こんなに穏やかな日々が、自分に訪れるなんて思ってもいませんでした」
エルディスの孫娘として、常に気を張り、感情を抑えて生きてきた彼女にとって、この屋敷での毎日は、初めて知る種類の温かさだった。
「閣下たちが帰ってきたら、また皆で、美味しいご飯を食べましょうね」
「ああ。そうだな」
アレンは頷き、羊皮紙の新しい一行に、そっと書き加えた。
――『いつか、この記録を二人で読み返せますように』と。
セリアはそれに気づかず、穏やかに紅茶を口に運んでいる。二人の間に、少しくすぐったい、優しい時間が流れた。
◇ ◇ ◇
屋敷の他の場所でも、留守を守る面々は、それぞれの持ち場で抜かりなく備えていた。
鍛錬場では、サンネが黙々と剣を振り続けている。
「閣下がお帰りになった時、腕が鈍っていたなどとは言わせん」
汗を拭いながら、彼女は一人、剣技を磨き続けていた。
中庭では、ミラが日向ぼっこをしながら、遠い空を見上げている。
「お父さん、怪我してないんだゾ……ボスと喧嘩してないといいんだゾ」
銀色の耳が、心配そうに少しだけ垂れていた。父である獣人族長と、夫であるヘンドリック。二人が魔族領でどうしているのか、彼女には知る由もない。
そして、王都の魔術師ギルドへ出向しているベルもまた、膨大な書類の山を片付けながら、時おりふと手を止めては、兄の無事を心の中で強く祈っていた。
◇ ◇ ◇
「パパ、まだ帰ってこないの?」
世界樹の枝の上から、小さなドライアドが、寂しそうに足をぶらぶらと揺らした。
根元で土の手入れをしていたエリーゼが、優しく微笑んで見上げる。
「心配いりませんわ、ドライアドさん」
エリーゼは、青々と茂る世界樹の葉を、愛おしそうに見上げた。
「旦那様は、この屋敷の温かいご飯と、あなたたちのことが、何より大好きですもの。……あちらの戦いも、きっと、もうすぐ終わりますわ」
その言葉に同意するように。
世界樹の青々とした枝葉が、遠い魔族領の主を待つように、静かに、優しく揺れた。
平穏な日常。それは、誰かが命を懸けて守っているからこそ、当たり前のように続いている。
その尊さを噛みしめるように、公爵邸の穏やかな一日は、静かに過ぎていくのだった。




