第305話:見えざる敵と、魔王の演説
魔族領の中立地帯に広がる、広大な広場。
穏健派と過激派、立場の異なる無数の魔族たちが、互いに距離を取りながらも一堂に会していた。張り詰めた空気が、ひりつくように広場を満たしている。
その中央に設けられた粗末な壇上に、マジカは一人で立っていた。
彼女はゆっくりと息を吸い込む。無数の視線が、値踏みするように、あるいは敵意を込めて、彼女に突き刺さっていた。
それでも、マジカは口を開いた。
「アタシたちは、見えない敵に踊らされている」
その第一声に、広場がざわりと揺れた。
マジカは語り始めた。人間の紋章を偽装した何者かが魔族の村を焼いたこと。その憎しみを利用して、人間と魔族を戦わせようとする者がいること。そして、その背後で糸を引く、かつて人間の国を脅かした黒幕の組織の存在を。
決して巧みな演説ではなかった。むしろ不器用で、言葉に詰まり、時おり焦りすら滲む。政治家のような美辞麗句は、彼女の口からは一つも出てこない。
だが、その一言一言には、嘘のない本音だけが込められていた。
「最初は、アタシも信じられなかった。アタシたちの憎しみが、誰かに仕組まれたものだったなんてな」
最初は牙を剥いて睨みつけていた過激派の魔族たちが、いつの間にか、その真摯な声に耳を傾け始めていた。
「アタシは魔王失格かもしれねぇ。魔王らしいことなんて、何一つ知らねぇ。玉座の座り方も、威張り方も、命令の下し方も分からねぇ」
群衆の中から、嘲るような声が飛んだ。
「そんな半端者が、よく魔王を名乗れたものだ!」
「ああ、その通りだ」
マジカは、その野次を真っ向から受け止めた。否定も、言い訳もしなかった。
「アタシは半端者だ。人間の飯を食って、人間の仲間ができて、それでも魔族を名乗ってる、どっちつかずの半端者さ。……でもな、だからこそ分かることもある」
マジカは拳を握りしめ、群衆を見渡した。
「でもな。……お前らに、同胞同士で殺し合ってほしくねぇんだ。それだけは、はっきりしてる」
その言葉が、朝の広場に響き渡った。
「人間が憎いか? アタシも昔はそうだった。だが、その憎しみを植え付けたのが、本当に人間だったのか。一度でいい、立ち止まって考えてみてくれ。……お前らの憎しみは、本当にお前らのものか?」
張り詰めていた敵意が、少しずつ、戸惑いと理解へと溶け出していく。過激派の何人かが、握っていた武器の手を、無意識に緩めていた。
群衆の空気が、確かに変わり始めた――その、まさにその時だった。
空気を引き裂くように、群衆の中に紛れていた数人の影が、突如として動いた。
「裏切り者の魔王め、死ね!」
彼らこそ、過激派を裏から煽り続けていた首謀者たち。かつての黒幕組織から資金と武器を受け取り、魔族領に憎しみの種を蒔き続けてきた、魔族の裏切り者――残党である。
一斉に放たれた、どす黒い魔力の奔流。それは、無防備なマジカの背へと殺到した。
だが。
その凶悪な魔法は、マジカに届く寸前で、不可視の分厚い多重結界に阻まれ、音もなく霧散した。
「……やはり、ネズミが紛れ込んでいたか」
いつの間にか、詠唱すらなく結界を展開していたヘンドリックが、心底面倒くさそうな顔で、静かに壇上の脇へと歩み出た。
「アタシの演説の、一番いいところで邪魔しやがって」
マジカが振り返り、不敵に笑う。その隣に、小柄で猫背な男が並び立つ。
正体を現した見えざる敵を前に、ヘンドリックとマジカは、静かに、しかし確かな連帯をもって対峙した。
残党たちが、忌々しげに顔を歪める。彼らにとって、この二人の存在は完全な誤算だった。人間に魂を売ったはずの半端者の魔王が、いつの間にか同胞の心を掴みつつある。そして、その隣には、あらゆる攻撃を意にも介さない、規格外の人間が立っている。
長く魔族領を蝕んできた憎しみの根が、ついにその醜い姿を、白日の下に晒そうとしていた。




