第302話:ギルドの残業と、二人の距離
王都の中心部、新生・魔術師ギルドの執務室。
窓の外はすでにすっかり暗くなっていたが、室内では二つの影が机に向かって並んでいた。
「シリルさん、こっちの予算案の修正、終わりました。次は魔法薬の仕入れリストをお願いします」
ベルが、綺麗に整理された書類の束をシリルの机に置いた。
「あ、ありがとうございます……! 本当に助かります、ベルさん」
シリルは目の下のクマを擦りながら、深く頭を下げた。過労で倒れる寸前だった彼は、王家から出向してきたベルの圧倒的な事務能力のおかげで、なんとか人並みの睡眠時間を確保できるようになりつつあった。
「……それにしても、ベルさんはどうしてここまで私の手伝いをしてくださるんですか。王城の仕事だけでも大変でしょうに」
書類に羽ペンを走らせながら、シリルがふと尋ねた。
ベルは少しだけ手を止め、窓に映る自分の顔を見つめた。
「……放っておけないんです」
「え?」
「昔、兄がそうだったから」
ベルの脳裏に、水の都で、ボロボロになりながら一人で仕事を抱え込んでいたヘンドリックの背中が浮かんだ。
「全部一人で背負い込んで、誰にも頼らずに、自分がすり減っていくのにも気づかない。……シリルさん、お兄ちゃんと同じ顔をしてたから」
ベルの横顔には、普段の完璧な侍女としての作り笑いではなく、どこか寂しげで優しい色が浮かんでいた。
「ベルさんは……強いですね」
シリルが思わずそう呟くと、ベルは慌てて首を横に振った。
「強くなんかないですよ。ただ、大事な人が潰れるのを、もう黙って見ていたくないだけです」
その言葉が執務室に落ちた瞬間。
『大事な人』という単語に、シリルの羽ペンの動きがピタリと止まり、彼の顔が一瞬にして真っ赤に染まった。
「だ、大事な……っ!?」
「あっ! ち、違います! 今の『大事な人』っていうのは、昔のお兄ちゃんのことですからね!? シリルさんのことじゃないですから!」
ベルも自分の失言に気づき、顔を真っ赤にして必死に手を振った。
「あ、はい! 分かってます! 閣下のことですよね! 勘違いなんてしてません!」
二人揃って慌てふためき、執務室の中に気まずくも温かい、むず痒い空気が充満した。
その様子を、執務室のドアの隙間からこっそりと覗き見ている人物がいた。
「ふむ、実に良い雰囲気だ。青春だのう」
お忍びでギルドの視察に来ていたヴァレリウス公爵が、満足げにニヤニヤと笑いながら頷いていたが、二人がそれに気づくことはなかった。
彼は持参した差し入れの菓子折りを、そっと扉の脇の棚に置いた。添えられた小さな紙片には、『無理はせぬようにな。──V』とだけ書かれている。
そして、二人に気づかれる前に、粋な老人は音もなくその場を後にした。
数時間後。
ベルが王城へ帰り、一人残されたシリルは、片付いた机の上を見つめながら小さく呟いた。
「大事な人、か……」
その顔には、隠しきれないまんざらでもない笑みが浮かんでいた。




