第299話:留守を守る者たち
公爵邸の朝は、いつもより少しだけ静かに始まった。
屋敷の主であるヘンドリック、魔王マジカ、そして王女ルミナリアが魔族領への和平交渉に発ってから、数日が経過していた。
騒々しい三人が不在の屋敷は、どこか火が消えたような、ぽっかりとした寂しさが漂っていた。
「……旦那様がいないと、なんだか張り合いがありませんわね」
朝食の準備を終え、誰も座っていない上座を見つめながら、エリーゼが小さく溜息をついた。いつもなら、この時間には「そんなに構うな」と言いながらも満更でもない顔で席につく、あの猫背の背中があるはずだった。
「嘆くことはない、エリーゼ。閣下がご不在の間は、この私が屋敷を完璧に守り抜く!」
サンネが、朝から磨き上げた騎士剣を腰に帯び、気合十分に胸を張る。
「お父さん、今頃ボスと会ってるんだゾ。あっちで喧嘩してないといいんだゾ」
ミラの銀色の尻尾が、心配半分、期待半分といった様子でぱたぱたと揺れている。あの脳筋の獣人族長と、面倒くさがりなヘンドリックが魔族領でどうしているのか。留守組の彼女たちには、知る由もない。
「パパ、いつ帰ってくるの?」
朝靄の晴れた庭で、世界樹の枝に座った小さなドライアドが、寂しそうに足を揺らしていた。
「すぐに帰ってきますわ。旦那様は、この屋敷の温かいご飯が大好きですからね」
エリーゼが優しく微笑みかけながら、世界樹の根元に水を撒いた。……本当は、自分が一番寂しいのだと、口には出さずに。
◇ ◇ ◇
その穏やかな時間が破られたのは、昼下がりのことだった。
王都から少し離れた公爵邸。主が不在であるという情報をどこからか聞きつけたらしい、小悪党の盗賊団が数名、白昼堂々、屋敷の裏口から侵入を試みたのだ。
「へへっ、噂通り警備が薄いぜ。お宝を根こそぎ……」
盗賊のリーダーが下卑た笑いを浮かべた、次の瞬間。
「あほーなんじゃ!」「痛いんじゃぞい!」
盗賊の足元の地面が突如としてポッカリと開き、彼らは悲鳴を上げる間もなく、土の精霊たちが掘り進めていた地下の巨大な落とし穴へと吸い込まれていった。
「な、なんだぁっ!?」
穴に落ちずに済んだ残りの賊が後ずさった背後に、凄まじい剣気を纏ったサンネが静かに立っていた。
「閣下の留守を狙う卑劣な輩め。このサンネが、騎士の誇りにかけて塵一つ残さず斬り捨ててくれる!」
「ひぃぃっ! なんだこの女騎士、殺気が異常だぞ!」
逃げようとした賊たちの前に、今度は無数の黒い影がカサカサと音を立てて壁や床から湧き出してきた。
漆黒の従業員、Gたちの群れである。彼らはベルナデッタの指示により、不審者を迅速に包囲するフォーメーションを組んでいた。
「ぎゃああああっ! 無理! 絶対に無理!」
さらに、彼らの足元の影が不自然に伸び、闇の精霊が音もなく這い寄って、冷たい恐怖で彼らの背筋を凍らせた。
ほんの数分の出来事だった。
侵入を試みた哀れな賊たちは、一歩も屋敷の中に入ることなく、完全なパニック状態に陥って涙目で降伏した。彼らはその後、ベルナデッタによって綺麗に縛り上げられ、王都の騎士団へと引き渡された。
「……旦那様がいなくても、この屋敷は鉄壁ですわね」
窓からその一連の騒動を眺めていたエリーゼが、扇子で口元を隠してくすりと笑った。
「ええ。皆、閣下の帰る場所を守ろうと必死ですから」
隣に並んだアレンが、手にした記録用の羊皮紙に『本日の防衛記録:所要時間三分』と書き込みながら、静かに頷いた。そのすぐ横では、セリアが少し赤くなった顔で、アレンの書き込む様子を嬉しそうに覗き込んでいる。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
いつもと同じように、豪華な夕食がダイニングテーブルに並べられた。
賊を捕まえた武勇伝で盛り上がるサンネや、美味しいご飯を頬張るミラ。賑やかな笑い声が響くが、やはりどこか物足りない。
ふと、全員の視線が、空席のままになっているヘンドリックの席へと集まった。
主のいない席は、屋敷の広さを余計に感じさせた。いつもは気にも留めない一つの空席が、今夜はやけに大きく見える。
「……早く、帰ってきてほしいですわね」
誰の口からともなくこぼれたその呟きに、全員が深く頷いた。
彼らは知っている。あの不器用で猫背な男が、この屋敷の中心であり、皆を繋ぎ止めている温かい結び目であることを。
窓の外では、彼らの帰りを待つように、世界樹の枝葉が静かな夜風に揺れていた。




