第296話:ある日の公爵邸と、悪くない毎日
穏やかな朝だった。
公爵邸の主であるヘンドリックは、いつもより早く目を覚ました。
窓から差し込む朝日に目を細め、小さく息を吐く。先日の『スローライフ完全移行計画書・第48稿』が見事に頓挫し、理想の平穏な隠居生活が果てしなく遠いことを再確認したばかりだった。
「……たまには、屋敷を見て回るか」
ふと、今自分の手の中にあるものを確かめたくなった。そんな静かな動機から、彼は寝間着のローブを羽織り、ゆっくりと自室を出た。
◇ ◇ ◇
最初に足を向けたのは、屋敷の中心である庭だった。
朝靄が晴れゆく中、すっかり元気を取り戻した世界樹の根元で、エリーゼが静かに手入れをしている。
「パパ、おはよう!」
頭上から元気な声が降ってきた。見上げると、世界樹の枝の上に座った小さなドライアドが手を振っている。
「今日もいい天気なの! パパも早くこっちに来るでしょ?」
「……俺は木には登らん」
ヘンドリックが短く返すと、それに気づいたエリーゼが優しく微笑んで振り返った。
「旦那様、今日も世界樹が元気ですわ」
「ああ。お前がよく診てくれているからな」
穏やかな朝の象徴のような光景に、ヘンドリックは少しだけ背中を伸ばし、次の場所へと歩き出した。
◇ ◇ ◇
庭の奥へ進むと、風を切る鋭い音が聞こえてきた。鍛錬場だ。
そこでは、朝早くからサンネが一人で剣を振っていた。研ぎ澄まされた剣閃が、朝の空気を切り裂いている。
「閣下。一手お相手願えますか」
「朝飯前にか」
「朝飯前だからです」
「……勘弁してくれ」
生真面目すぎる騎士の提案に、ヘンドリックは苦笑してその場を通り過ぎた。
そのまま中庭へ出ると、日向の芝生の上で、銀色の毛玉のようなものが丸くなっているのを見つけた。
ミラだった。彼女は昼寝……ならぬ、朝寝を堪能しているらしい。
スゥ、スゥと規則正しい寝息を立てながら、銀色の尻尾だけがぱたぱたと機嫌よく動いている。
ヘンドリックは足音を忍ばせて近づくと、近くの長椅子に置かれていた毛布を手に取り、起こさないようそっと彼女の体にかけた。
尻尾の動きが少しだけゆっくりになり、ミラは幸せそうに丸まった。
『……冷えるといけないからな』
ヘンドリックは誰に言い訳するでもなく内心で呟き、屋敷の中へと戻った。
◇ ◇ ◇
厨房に近づくと、食欲をそそる良い香りが漂ってきた。
中を覗き込むと、エプロン姿の魔王マジカが、鼻歌交じりに朝食を作っている。
「お、起きたのか。ちょうどいいところに来たな」
マジカは木べらを持ったまま、少し得意げに胸を張った。
「アタシの飯が一番うまいって、そろそろ認めろ」
味見用の小皿を渡され、ヘンドリックは一口啜った。確かに、以前とは比べ物にならないほど絶妙な味付けになっている。
「……まあ、うまい」
「ふん。当然だ」
マジカはそっぽを向いたが、彼女の尖った耳の先が真っ赤に染まっているのを、ヘンドリックは見逃さなかった。
◇ ◇ ◇
床下からも、この屋敷の活気は伝わってくる。
暗い地下では、漆黒の従業員たち――Gたちが、今日も世界樹の根の周囲で黙々と土壌改良のために働いているはずだ。
ドタバタ、という騒がしい音が響いた。
「痛いんじゃぞい!」
「あほーなんじゃ!」
見れば、廊下の隅で土の精霊たちが、ベルナデッタにモップで小突かれて逃げ回っていた。どうやらまた、屋敷の床下に無断で穴掘りをして遊んでいたらしい。
「衛生管理と強度の維持は徹底いたします。精霊であっても容赦はしません」
ベルナデッタが真顔でモップを構え直す。今日も屋敷の平和は、有能なメイド長によって守られているようだった。
◇ ◇ ◇
療養明けのアレンが使っている部屋の前を通りかかると、少し開いた扉の隙間から、穏やかな声が聞こえた。
アレンが机に向かって羊皮紙に何かを書いており、その隣でセリアが嬉しそうに覗き込んでいる。
「また記録ですか?」
「いえ……今日は、違うものを」
アレンが少し照れたように微笑む。それは、世界樹の観測データなどではない。不器用な二人が紡ぐ、穏やかな日々の記録――日記のようなものなのだろう。
ヘンドリックは声をかける無粋な真似はせず、静かにその場を離れた。
◇ ◇ ◇
玄関ホールに出ると、ちょうど出かけようとしていた妹とすれ違った。
妹は、王女の側仕えとしての立派な制服を着こなしている。今日はこれから、魔術師ギルドの監査へ向かうのだろう。
「お兄ちゃん、いってきます」
「ああ。無理するなよ」
「お兄ちゃんこそ」
妹は屈託のない笑顔で手を振り、立派なレディとしての足取りで屋敷を出て行った。
◇ ◇ ◇
彼女の背中を見送りながら、ヘンドリックは今この場にいない者たちへと思いを馳せた。
ルミナリアは、今頃王城で王女としての公務をこなしているはずだ。
魔王マジカも、和平交渉の準備のために時折魔族領へ足を運ぶようになっている。だが、必ず晩飯までには帰ってくる。
ギルドの執務室では、シリルが書類の山に埋もれながら「予算が!」と悲鳴を上げているだろう。
ヴァレリウスはどこかの優雅な部屋で紅茶を飲みながら、ヘンドリックの第48稿の行方を楽しみにしているに違いない。
そして、ヘンドリックの影のどこかでは、闇の精霊が今日も静かに、この温かい日常を見守ってくれている。
全員が、それぞれの場所で、それぞれの役割を持ち、懸命に生きている。
◇ ◇ ◇
屋敷を一周し終え、ヘンドリックは再び世界樹の根元へと戻ってきた。
朝の空気に、賑やかな声、働く音、そして笑い声が溶け込んでいる。
かつて、水の都の薄暗い路地で、たった一人で世界を睨みつけていた不器用な男の周りに、今はこれだけの人がいる。
『……スローライフは、まだ先だ』
ヘンドリックは、眩しそうに目を細めて小さく呟いた。
『でも、これはこれで』
『……悪くない』
見上げた先で、世界樹の枝葉が、次の新しい風を待つように穏やかに揺れていた。




