第295話:魔王の里帰り?・魔族領からの使者
公爵邸に、かつてないほどの緊迫した気配が忍び寄っていた。
王都の強固な防衛結界をすり抜け、影から影へと渡り歩いてきたその男は、魔族領から密かに遣わされた使者であった。彼の身なりはボロボロで、道中で負ったと思われる生々しい傷がいくつも刻まれていた。
現在、魔族領の内部では、先の黒幕が遺した負の遺産や、次代の覇権を巡る激しい派閥争いによって、深刻な混乱が起きている。彼は命がけで、この人間の王都まで辿り着いたのである。
使者の目的はただ一つ。人間に捕らえられ、屈辱的な幽閉生活を送っていると噂される誇り高き『元魔王』マジカとの接触であった。
『魔王様……どうかご無事で。今、この私が結界を破り、必ずやお救いいたします……っ!』
悲壮な決意を胸に秘め、使者は屋敷の中で最も強大な魔力が集まっている部屋――厨房へと、音もなく突入した。
「魔王様、お助けに参りまし……た……?」
突入した使者は、構えていた暗殺用の短剣を取り落としそうになった。
そこには、恐ろしき魔族の頂点に立つはずの元魔王マジカの姿が、確かにあった。
しかし彼女は、冷たい鎖に繋がれているわけでも、凄惨な拷問を受けているわけでもなかった。
可愛らしいフリルのついたエプロンを身に纏い、機嫌よく鼻歌を歌いながら、大きな鍋でコトコトとクリームシチューを煮込んでいたのである。
「あ? なんだお前。見ない顔だな」
マジカは木べらを持ったまま振り返り、きょとんとした顔で使者を見た。
「ま、魔王様……? そのエプロン姿は、一体……それに、その鍋の香りは……」
「ああ、今日の昼飯の当番がアタシでな。隠し味に水の都の特産スパイスを入れてみたんだが、ヘンドリックの奴、喜ぶかな」
あまりにも平和で家庭的すぎる光景に、使者の張り詰めていた緊張の糸が、プツンと音を立てて切れた。
シリアスな決死の潜入劇は、一瞬にして公爵邸のぬるま湯のような日常へと飲み込まれてしまったのだ。
◇ ◇ ◇
その後、立派なリビングのふかふかなソファに通された使者は、ベルナデッタが淹れた温かい紅茶と手作りクッキーを振る舞われながら、困惑しきった顔で本題を切り出した。
「……魔王様を連れ戻しに、あるいは救出に参ったわけでは、ないのです」
使者はクッキーの美味しさに少しだけ涙ぐみながら、居住まいを正して深く頭を下げた。
「現在、魔族領は存亡の危機にあります。人間との無益な争いを止め、共存の道を探らねば、我々は立ち行かなくなります。どうか、魔族と人間の和平交渉の『橋渡し役』を担っていただけないでしょうか」
それは、魔族領からの正式な、そして切実な願いであった。
しかし、マジカは腕を組み、渋い顔をしてそっぽを向いた。
「断る。アタシはもう、人間側の人間……というか、この屋敷の生活に完全に馴染んでるんだ。今更、魔族の代表面をして小難しい交渉の席になんて座れるか」
かつての部下からの頼みとはいえ、彼女はすでにヘンドリックたちとの温かい日々に、自分の確固たる居場所を見つけていた。面倒な政治的交渉など、真っ平ごめんだったのだ。
「そこをなんとか……! 魔王様以外に、人間を深く理解し、なおかつ魔族の過激派を力で黙らせることができるお方はおりません!」
使者が床に額をこすりつけて懇願するが、マジカは首を縦に振らない。
その時、静かにリビングの扉が開き、小柄で猫背な男が入ってきた。
ヘンドリックである。
彼はボロボロの使者の存在に驚く様子もなく、ただ静かにマジカの前に立ち、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「引き受けてやれ」
「ヘンドリック……だけどな、アタシは……」
「お前にしかできないことだ」
ヘンドリックの声は、低く、しかし確かな信頼に満ちていた。
「人間と魔族、両方の世界を知って、両方の飯の美味さを知っているお前だからこそ、繋げられるものがあるはずだ」
その不器用で真っ直ぐな言葉に、マジカは一瞬だけ目を丸くした。
やがて、彼女の尖った耳が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「……っ、お前が、そこまで言うなら……」
マジカは照れ隠しのように顔を背けながら、ぼそりと呟いた。
「少しだけ、里帰りしてきてやるよ。……晩飯までには、帰るからな」
こうして、魔族と人間の新たな関係への第一歩は、シチューの香りが漂う公爵邸のリビングで、あっさりと踏み出されたのであった。
それは、人間と魔族の未来を変える、今後の大きな展開への重要な布石となる出来事だった。




