第292話:妹の就職と、王女の側仕え
公爵邸の朝は早い。
厨房から漂う温かいスープの香りに包まれながら、セリアは自室の鏡の前で、何度も自分の顔を確認していた。
少しだけ赤らんだ頬。落ち着きなく揺れるエルフの長い耳。
彼女は小さく深呼吸をして、昨日からずっと胸の奥で早鐘のように鳴り続けている心臓を落ち着かせようと試みた。
怪我をしてベッドで療養しているアレンの元へ向かうためだ。
実のところ、セリアはずっと以前から、アレンに対して密かな好意を抱いていた。祖父エルディスの有能な部下であり、常に冷静沈着で頼りになる彼に、少女らしい淡い憧れを持っていたのだ。
しかし、アレンの態度は常に「従者と護衛対象」という分厚い壁に守られていた。彼はセリアを「エルディス様の孫娘」あるいは「観察記録の対象」としてしか見ておらず、一人の女性として扱われたことなど一度もないと感じていた。
だからこそ、セリアは早々に諦めていた。自分は女として見られていないのだと、その淡い恋心を心の奥底に深く封印していたのだ。
だが、あのダークエルフ襲撃の日の出来事が、すべてを覆した。
自分の命を削り、血まみれになりながらも彼女を守り抜いた背中。「あなたが、大切だからです」という、彼自身の偽りない本音の言葉。
それ以来、セリアはアレンの顔を直視できなくなっていた。彼がただの従者ではなく、一人の特別な異性として、強烈に意識されるようになってしまったのだ。
「……よし」
気合を入れて立ち上がり、セリアは盆に水の入ったグラスを乗せてアレンの部屋へと向かう。この胸の高鳴りは、もう誰にも、そして自分自身にも誤魔化すことはできなかった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、公爵邸のリビングでは、全く別の理由で深い静寂が落ちていた。
「……どうかな、お兄ちゃん」
少し照れくさそうに微笑みながら立っているのは、ヘンドリックの妹だった。
しかし、その姿はいつもの彼女とは違っていた。彼女が身に纏っているのは、王城でルミナリア王女の側仕えとして働くための、正式な制服だった。
深い紺色を基調とし、銀糸で王家の紋章が繊細に刺繍された質の高いドレス。それは、限られた身分の者しか袖を通すことを許されない格式高い衣服だ。
ヘンドリックは、口を半開きにしたまま、ただ呆然と妹を見つめていた。
スラムの薄汚れた路地裏で、ヘンドリックの背中に隠れて震えていた小さな女の子。水の都で、必死に日銭を稼いでいた兄を健気に待っていた少女。
その面影は、もちろん残っている。彼女の笑顔には、今も変わらない無邪気さと幼さが確かに同居している。
しかし、目の前に立つ彼女は、もはや「守られるだけの子供」ではなかった。
公爵邸でエリーゼから洗練された貴族の礼作法を学び、サンネから凛とした姿勢と規律を吸収し、ルミナリアの側で王族としての威厳と交渉の空気を肌で感じ取ってきた。
様々な人々と関わり、その長所を素直に吸収してきた彼女は、本人が自覚している以上に、芯の通った一人の美しい『大人のレディ』へと成長を遂げていたのだ。
背筋はまっすぐに伸び、その佇まいには、どんな困難にも動じない静かな強さと優雅さが備わっていた。
「……変、かな?」
沈黙に耐えかねたのか、妹が不安そうに首を傾げる。
「いや」
ヘンドリックは、こみ上げてくる熱いものを必死に飲み込み、不器用に目を逸らした。
「……よく、似合っている」
その短い言葉に、妹はぱぁっと顔を輝かせた。
「よき側仕えじゃ」
ソファに優雅に腰掛けていたルミナリアが、満足そうに扇子を鳴らした。
「スラムの出であろうと関係ない。わらわが直々に見込んだ通り、王城の有象無象の貴族たちを黙らせるだけの品格と度胸が、今のそなたにはある。自信を持て」
「はい、ルミナリア殿下。ありがとうございます」
妹は、完璧な所作で優雅なカーテシーを披露した。その洗練された流れるような動きに、ベルナデッタやエリーゼも嬉しそうに目を細めている。
「……お兄ちゃんのおかげだよ」
顔を上げた妹が、真っ直ぐにヘンドリックを見て言った。
「お兄ちゃんが、私をここまで連れてきてくれたから。これからは私が、お兄ちゃんやみんなの役に立つ番だよ」
ヘンドリックは、小柄な背中を少しだけ丸め、照れ隠しのように頭を掻いた。
『……母さんに、報告しないとな』
彼の内心は、決して言葉には出せないほどの深い感慨で満たされていた。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
自室の机に向かった妹は、静かに羽ペンを走らせていた。
宛先は、水の都ヘラフテンで暮らす母親だ。
『お母さんへ。お元気ですか。今日、私は正式にルミナリア殿下の側仕えに就任しました』
カリカリという小気味よい音が、静かな部屋に響く。
『王城の制服を着た私を見て、お兄ちゃんは少し泣きそうになっていました。本人は絶対に認めないだろうけど、長く一緒にいる私にはすぐに分かります』
妹は、昼間のヘンドリックの不器用な表情を思い出し、小さくくすりと笑った。
『私はここで、本当にたくさんの素晴らしい人たちに出会いました。みんな優しくて、強くて、私のことを本当の家族のように大切にしてくれます』
『お母さんが言ってくれた通り、お兄ちゃんは本当に幸せ者です。もちろん、お兄ちゃん自身がみんなにたくさんの優しさを与えてきたからこそ、今のこの温かい場所があるのだと思います』
ペンを一度置き、妹は窓の外を見上げた。
魔力灯の光に照らされた庭では、すっかり元気を取り戻した世界樹の枝葉が、夜風に揺れてさわさわと優しい音を立てていた。
『私は、お兄ちゃんに守られるだけの妹は、もう卒業します。これからは、大人の女性として、王城でしっかり働きながら、不器用なお兄ちゃんを私なりのやり方で支えていくつもりです』
『次に会う時は、もっと成長した姿を見せられるように頑張ります。また近いうちに、みんなで一緒に会いに行きますね。約束です』
手紙の最後に自分の名前を記し、妹は丁寧に封をした。
窓から吹き込む夜風が、彼女の髪を優しく揺らす。
スラムから始まり、水の都を経て、ついに王城へと辿り着いた彼女の新しい人生が、今、確かな足取りで始まろうとしていた。




