第287話:スローライフ計画書・第48稿
深夜の公爵邸。
深い静寂に包まれた屋敷の中で、一室だけが淡い魔力灯の光に照らされていた。
小柄で猫背のヘンドリックは、くたびれたローブを羽織ったまま、執務室の分厚いオーク材の机に向かっていた。カリカリと、羊皮紙にペンを走らせる音だけが室内に響く。
床下からは、夜通し働く数百万の従業員たち――Gたちのカサカサという微かな音が、まるで子守唄のように聞こえていた。
ヘンドリックの目の前には、白紙の羊皮紙が山積みになっている。
先日の誕生日。彼は『スローライフ完全移行計画書・第47稿』を妻たちと妹に見つかり、激しい非難を浴びた。
全員を幸せにした後、自分一人だけで水の都へ移住し、ひっそりと余生を過ごす。それが過去四十六回の失敗を経て辿り着いた完璧な計画のはずだった。
だが、それは「残される側の気持ちを全く考えていない」と、見事に一蹴されてしまったのだ。
だからこそ、彼は反省した。
逃げるのではない。置いていくのでもない。
一番上に置かれた真新しい羊皮紙に、彼は新たなタイトルを書き込んだ。
『スローライフ完全移行計画書・第48稿』
今度の基本理念は、「全員を連れて、共にスローライフをする計画」である。これならば、誰からも文句は出ないはずだ。
ヘンドリックは気合を入れ直し、インク瓶にペンを浸した。
まずは居住空間の確保だ。水の都の郊外に、全員が快適に暮らせる広大な土地を買い上げる必要がある。
妻は五人いる。エリーゼには世界樹の苗を育てる温室付きの庭が要る。サンネには心置きなく剣を振るえる頑丈な鍛錬場が、ミラには走り回れる遊び場と豊富なおやつの備蓄庫が不可欠だ。ルミナリアには王女としての品格を保てる謁見室を用意し、魔王マジカには最新の調理器具を揃えた巨大な厨房を作らなければならない。
ペンが進む。
それに加えて、居候のエルフ二人――アレンとセリアの研究室と生活空間。精霊たちが遊ぶための中庭。有能な従業員であるGたちのための、完璧な空調と餌場を備えた地下居住区画。移動手段であるワームを飼育・管理する広大な地下ドーム。
次に、安全保障だ。これだけの大所帯が動くとなれば、賊や魔物の標的になりかねない。
敷地全体を覆う、王城クラスの多重防衛結界の構築。侵入者を自動で迎撃する魔力砲の配置。万が一の事態に備え、各地へ瞬時に逃げられるよう、長距離転移の魔法陣も複数用意しておく必要がある。
最後に、これらを維持するための莫大な資金繰りと、予算計画。魔術師ギルドのシリルへ定期的に研究資金を回すための、ダミー商会の設立と運用ルートの確立。
カリカリ、カリカリ。
ヘンドリックの目は次第に血走り、小柄な背中はさらに丸まっていく。頭の中の高度な演算をすべて羊皮紙に叩きつけるように、彼は猛烈な勢いで書き続けた。
気がつけば、窓の外が白み始めていた。朝だ。
コンコン、と控えめなノックの音がして、執務室の扉が開いた。
「お兄ちゃん、やっぱりまた徹夜してたんだ」
淹れたてのコーヒーの香りと共に、妹が入ってきた。彼女は呆れたような顔で、ヘンドリックの机の上にマグカップを置く。
「……少し、筆が乗っただけだ」
ヘンドリックはペンを置き、凝り固まった首を鳴らした。
「どれどれ?」
妹はマグカップの横に積み上げられた、分厚い羊皮紙の束を覗き込んだ。一番上には『スローライフ完全移行計画書・第48稿』と書かれている。
「あ、今度はみんなで行く計画にしたんだ。えらいえらい」
妹はにこにこと笑いながら、計画書のページをめくり始めた。
しかし、読み進めるにつれて、妹の笑顔が徐々に引きつっていく。
第一章の『防衛拠点建築シミュレーション』から始まり、第二章の『自給自足用・農業プラント及び生態系管理システム』、第三章の『有事における自動迎撃と地下シェルター運用マニュアル』、そして最終章の『数十年単位の予算確保と資金運用ルート』。
パラパラとめくる手が止まり、妹はゆっくりとヘンドリックを見た。
「お兄ちゃん、これただの仕事の計画書だよ?」
「……え?」
ヘンドリックは間の抜けた声を出した。
「スローライフって、もっとこう、のんびり畑を耕したり、縁側でお茶を飲んだりするんじゃないの?」
妹は分厚い束を指差した。
「これ、ただの新しい要塞都市の建国計画じゃない。しかも、運営から護衛から予算管理まで、全部お兄ちゃんが一人でやる前提になってるし。どこがスローなの?」
言われてみれば、その通りだった。
誰も不自由しないように、誰も危険な目に遭わないようにと、あらゆるリスクを想定して完璧な環境を作ろうとした結果、現在の公爵邸を管理するよりも遥かに膨大で激務なタスクが、すべてヘンドリックの両肩にのしかかる計算になっていた。
これでは、全く休めない。
ヘンドリックは愕然とし、両手で顔を覆った。
『……俺は、スローライフの意味を見失っているのかもしれない』
結局、またしても計画は振り出しに戻ってしまった。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
王城への連絡用として設置されている通信の魔道具が、低く鳴り響いた。
ヘンドリックが魔力を通すと、聞き慣れた老人の声が聞こえてきた。
『ヘンドリック君、第48稿、見せてもらったよ。相変わらず仕事熱心だね』
ヴァレリウス公爵だった。通信越しでも、彼がニヤニヤと笑っているのがはっきりと分かる。
「……なぜ、もう知っているんですか」
ヘンドリックが呻くように言うと、公爵は楽しそうに答えた。
『シリル君がね、計画書の中のダミー商会設立の項目を見て、これならギルドの予算が増えると泣いて喜んでいたよ。おかげでわしの耳にも入ったというわけだ』
相変わらず、筒抜けだった。
ヘンドリックは天井を仰ぎ見た。
『……スローライフへの道は、途方もなく遠い』




