第288話:Gたちの労働環境改善
世界樹の浄化と公爵邸の維持において、もはや屋敷の誰にとっても無視できない存在となっている者たちがいる。
数百万に及ぶ、漆黒の有能な従業員たち――通称『G』である。
彼らは世界樹の根元に巣食っていた瘴気を喰らい、黒幕が仕掛けていた転移無効の魔法陣の術式を物理的にかじり切るなど、これまで八面六臂の活躍を見せてきた。
光り輝く世界樹の足元、すなわち人目につかない暗く冷たい土の中で、彼らは今日も誰に褒められることもなく黙々と働き続けている。
◇ ◇ ◇
ある日の午後。
ヘンドリックは、リビングに妻たちとシリル、そしてメイド長のベルナデッタを集めて、静かに切り出した。
「……従業員の待遇を、改善しようと思う」
お茶を飲んでいたエリーゼが、不思議そうに小首を傾げた。
「従業員、ですか? この屋敷に雇い入れている使用人や護衛の皆さんのことでしょうか」
「いや」
ヘンドリックは小さくかぶりを振り、床下を真っ直ぐに指差した。
「Gたちのことだ」
その一言に、リビングの空気が一瞬だけ完全に固まった。
「あいつらは、実によくやっている。世界樹の魔力が安定してきたのも、あいつらが根の周辺の土壌を常に整え、瘴気の残りカスを処理し続けてくれているおかげだ」
ヘンドリックは真剣な顔で続けた。
「しかし、現在の彼らの労働環境は劣悪と言わざるを得ない。ただ土の中に潜り、俺の魔力と瘴気を糧にして生きているだけだ。雇用主として、これは見過ごせない」
「……具体的には、どうされるおつもりで?」
シリルが、嫌な予感を顔中に行き渡らせながら恐る恐る尋ねた。
「専用の居住区画と、休憩スペースの整備。そして、報酬の支給だ」
ヘンドリックは、先日の『第48稿』作成の経験を活かし、頭の中で構築した完璧な図面を語り始めた。
「屋敷の地下、さらに深い階層に、彼ら専用の巨大なドーム状のコロニーを建設する。気温と湿度は常に彼らが最も活発に動ける状態に保ち、外敵の侵入を完全に防ぐ強固な結界を張る」
「虫のために結界を……」とシリルが早くも頭を抱え始める。
「さらに、労働の対価として、高品質な餌を定期的に支給する。ただの生ゴミではない。魔力をたっぷり含んだ特製の栄養ゼリーだ。これを休憩スペースに常備し、いつでも自由に食べられるようにする」
ヘンドリックのプレゼンテーションが終わると、深い沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは、メイド服に身を包んだベルナデッタだった。
彼女は手にしたモップをぎゅっと握り直し、一切の表情を崩さずに言った。
「……地下に居住区画を建設されるのはよろしいですが、屋敷の居住スペースへの侵入はこれまで通り固く禁じます。衛生管理は徹底いたしますので、その点だけはご承知おきください」
「ああ。居住区の出入り口は地下で完結させる。屋敷内を徘徊することはない」
「それならば、文句はございません」
ベルナデッタが潔く引き下がると、ついに限界を迎えたシリルが立ち上がった。
「ちょっと待ってください!! 地下に巨大なコロニーを作って、空調を完備して、さらに特製の魔力ゼリーを数百万に毎日支給する!? ただでさえギルドの再建で資金が必要な時に……また予算が……!!」
シリルの悲痛な叫びが、平和なリビングに響き渡った。
「安心しろ、シリル。コロニーの穴掘りは土の精霊たちにやらせる。人件費はゼロだ」
「問題はそこじゃないんです!!」
シリルが泣き崩れる中、計画はヘンドリックの鶴の一声で強制的に実行に移された。
◇ ◇ ◇
数日後。
土の精霊であるぞいの子と女の精霊が、文句を言いながらも地下を豪快に掘り進め、巨大な空洞を作り上げた。
「我輩、こんなに掘ったんじゃぞい!」
「あほー、もっと丁寧に掘るんじゃ」
そこにヘンドリックが環境維持の魔法陣を敷き詰め、特注した巨大な餌場に魔力ゼリーを設置した。
新しい居住区画が完成した日。
ヘンドリックは、屋敷の裏庭にこっそりと設けた小さな「観察用の小窓」から、地下の様子を覗き込んでいた。
隣には、呆れ顔のエリーゼと、興味津々のミラが並んでいる。
「……どうですか、旦那様」
「見てみろ」
小窓の奥、淡い光に照らされた地下コロニーでは、Gたちが特製の魔力ゼリーに群がり、活力を得て、これまで以上の猛スピードで世界樹の根へと向かっていた。土壌の改良と浄化作業に、嬉々として精を出している。
「わあ、みんなすっごく元気なんだゾ!」
ミラが小窓に張り付いて、銀色の耳をパタパタと揺らした。
あまりにも健気に働く従業員たちの姿を見ていると、不思議なことに、見学に来ていた屋敷の全員が「まあ、いいか」という温かい空気に包まれていった。
「……悔しいですが、世界樹の魔力循環がさらに良くなっているのは事実です。彼らも、この屋敷の立派な一員ということですね」
エリーゼが、小さく息を吐きながら微笑んだ。
少し離れた場所では、シリルが「予算……予算……」とまだうわ言のように呟いていたが、もはや彼を止める者はいなかった。
ヘンドリックは小窓から身を離し、丸まった背中を少しだけ伸ばした。
『……従業員は大事にしないとな』
地下から聞こえる微かな音は、もはやヘンドリックにとって、頼もしい家族の足音のように感じられていた。




