第285話:帰り道と、苗字の開示と、妻たちの返事
水の都からの帰り道。
ワームの背中の上は、相変わらず定員オーバーだったが、妻たちは皆一様に満足そうな顔をしていた。
夕暮れの空が、水の都の運河を橙色に染めながら遠ざかっていく。波の音が遠くなっていく。
しばらく誰も何も言わなかった。それでも居心地は悪くなかった。
揺れる背中の上で、ヘンドリックが不意に口を開いた。
「……聞いてくれるか」
その声の温度が、いつもと少し違った。
全員が静かになった。
「俺の苗字は……」
ヘンドリックは、ずっと隠していた父親の名前を口にした。
裏社会の組織の中間幹部だった男の名前。スラムと王都の権力層を繋いでいた男の名前。子供たちを顧みず、金のためだけに動いていた男の名前。
それを名乗りたくなかった理由も、ぽつりぽつりと静かに語った。
全員が、ただ静かに彼の言葉に耳を傾けていた。
誰も遮らなかった。誰も急かさなかった。誰もいらないことを言わなかった。
ワームだけが、静かに地中を進んでいた。
語り終えた後、少しの静寂が落ちた。
ミラの尻尾が、いつもより静かにゆれていた。魔王が腕を組んだまま、少し下を向いていた。サンネの手が膝の上で静かに握られていた。エリーゼがまっすぐにヘンドリックを見ていた。ルミナリアが扇子を閉じていた。
やがて、エリーゼが静かに微笑んで言った。
「……旦那様はヘンドリックですわ。それだけで十分です」
「私はベルンハルトを捨てた。苗字など関係ない」
サンネが力強く頷く。
「ボスはボスなんだゾ」
ミラが無邪気に笑う。
「わらわはもうヘンドリックを名乗っているのじゃ。今更じゃろ」
ルミナリアが扇子で口元を隠しながら言う。
「アタシも同じだ。……今更苗字で何が変わる」
魔王は少し耳を赤くしながら、そっぽを向いた。
ヘンドリックは少し間を置いて、不器用に口を開いた。
「……ありがとう」
全員が「どういたしまして」とは言わず、ただ優しく笑った。
魔王がそっぽを向いたまま、ぼそりと言った。
「……言えたじゃないか。ちゃんと」
「うるさい」
「ハハ」
ミラが「ボス、ちゃんと言えたんだゾ! えらいんだゾ!」と首に抱きついてきた。
「分かった、分かった、離れろ」
しばらく沈黙が続いた後、妹がにこにこしながら言った。
「お兄ちゃん、お母さんが喜んでたね」
「……そうだな」
「また一緒に会いに行こうよ」
「ああ」
「約束だよ」
「……ああ」
『……家族が、増えた。そういうことだ』
ヘンドリックは、夕日に染まる空を見上げながら、密かにそう思った。




