第284話:母親と、知らなかった話と、乱入する妻たち
扉の奥に立っていたのは、五十代前半の、疲労の色は見えつつも穏やかな顔をした女性だった。
「また来たのかい。顔色が悪いよ」
「まあな」
「上がりなさい」
質素だが温かみのある部屋に案内され、ヘンドリックは椅子に座った。
お茶が出てきた。子供の頃から変わらない味がした。
少しの沈黙の後、ヘンドリックは静かに切り出した。
「……父親が、死んだ」
母親はしばらく黙って、手元の茶器を見つめていた。
「……そうかい」
「最後は、ちゃんとした」
母親はゆっくりと窓の外へ視線を向けた。
「……あの人にも、そういうところがあったんだねえ」
怒りでも悲しみでもなく、ただ静かな受け止め方だった。長い年月の中で、感情を整理しきった人の顔だった。
「あんたのこと、ずっと心配してたよ」
「大丈夫だ」
「嘘おっしゃい。顔に全部出てるよ」
母親は優しく笑った。
「でも……ちゃんと帰ってきたじゃないか」
その言葉に、ヘンドリックは少しだけ目を伏せた。
「あの子、立派になったねえ」
妹の話題になり、母親が目を細める。
「そうだな」
「あんたのおかげだよ」
「……お前のおかげでもある」
母親が少し驚いたように、ヘンドリックを見た。そして、目を細めてゆっくりと頷いた。
「……ありがとうよ」
しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。
母親が静かに言葉を続けた。
「あんたの苗字のこと……ずっと気になってたんだろ」
「……ああ」
「あの人の名前は名乗らなくていいよ。あんたは……ヘンドリックだけで十分だよ」
ヘンドリックは少し黙って、深く頷いた。
◇ ◇ ◇
その時だった。
「旦那様が長すぎるので」
扉が開かれ、エリーゼが堂々と入ってきた。
「心配したんだゾ」とミラ。
「少しは待てないのか」とヘンドリック。
「待ちました。三十分」とサンネが真顔で答えた。
「わらわは十分しか待てなかったのじゃ」とルミナリア。
「十分以下だったな」と魔王が腕を組む。
妻全員がぞろぞろと狭い部屋に入ってくる。一気に部屋が満員になった。
母親は目を丸くして全員を見渡し、やがてふふっと笑い出した。
「……まあ、こんなに大勢で来てくれたのかい。あんたも、ようやく一人じゃなくなったんだねえ」
ヘンドリックは気まずそうに目を逸らした。
「はじめまして」
妻たちが綺麗に揃ってお辞儀をする。
エリーゼが静かに頭を下げた。「旦那様にいつもお世話になっております」
サンネが真剣な顔で「閣下に剣として仕えております」と言った。
ミラが「ボスの子供、産みたいんだゾ!」と直球で言った。
「ミラ!」とヘンドリックが慌てる。
母親が「まあまあ」と笑いながら手を振った。
「……みんな、いい子たちじゃないか」
「……そうですかね」とヘンドリックが遠い目をする。
「そうだよ。こんなに大事にしてもらえて、あんたは幸せだねえ」
ヘンドリックは何も言わなかった。ただ、少しだけ、うつむいた。
◇ ◇ ◇
帰り際、母親がヘンドリックの背中に声をかけた。
「……また来なさいよ。今度は早めにね」
「ああ」
「……その子たちも一緒に」
「……分かった」
短い返事をして、ヘンドリックは歩き出した。
『……来てよかった』
小柄な背中から、少しだけ力が抜けていた。




