第277話:追放無効・10分独占・懲りない精霊
翌朝。
修復作業が続く公爵邸の廊下の片隅で、シリルと妹が並んで立っていた。
徹夜での解析作業を終えたシリルは、まだどこか放心したような、それでいて憑き物が落ちたような顔をしている。
「……昨日は、ありがとうございました」
妹が、窓の外を見つめながら静かに言った。
「いえ、こちらこそ。あなたの言葉に……随分と助けられました」
シリルが少し頬を赤くしながら答えた。
二人の間に、穏やかで静かな空気が流れた。
その時だった。
廊下の壁から、小さな手がにょっきりと出てきた。
ぞいの子だった。
めり込んでいた壁からずるりと抜け出した土の精霊は、無防備に立っている妹のスカートの裾に向かって、音もなく手を伸ばした。
勢いよく、めくる。
「…………」
短パンだった。
めくり上げたぞいの子が、空中で完全に固まった。
妹がにこにこしながら言った。
「屋敷に土の精霊がいるって聞いてたので、下は短パンにしてるんです」
「いつから……」とシリルが驚きで固まる。
「お兄ちゃんから、だいぶ前に聞いてましたから」
次の瞬間、ぞいの子が強烈な衝撃と共に別の壁にめり込んだ。
「あほーなんじゃ」
背後に現れた女の土の精霊が、ため息をつきながらケリ倒したのだった。
「……これが、この屋敷の日常なんですよ」
妹が笑いながらシリルに言った。
シリルが苦笑いしながら頷いた。
「……なんとなく、分かってきました」
◇ ◇ ◇
その頃、応接室ではかつてないほど深刻な空気が漂っていた。
ヴァレリウス公爵の様子が、昨夜から明らかにおかしいのだ。
ヘンドリックが黒幕の名前を掴んだその夜から、まるで互いに引き合うように異変が始まっていた。
「……公爵閣下、顔色が」
アルフォンスが声をかけた時、ヴァレリウスの目の奥に、どす黒い霧が滲んだ。
それは、この場にいる誰もが見たことのある光景だった。
「これは……っ!」
エリーゼが即座に身構える。
黒幕が察したのだ。裏帳簿が解析され、自分まで手が届きかけていることを。
もはや公爵の裏工作を隠す必要はない。今まで最低限に抑え込んでいたヴァレリウスへの瘴気の制御を、黒幕はここへ来て一気に解放したのだ。
ヴァレリウスの全身から、漆黒の霧が激しく噴き出した。
「兄上!!」
カトリーヌが悲鳴を上げて駆け寄る。
ヴァレリウスはそのまま糸が切れたように床に倒れ伏した。
全員が固まった。
ヘンドリックがゆっくりと近づき、その傍らに膝をついた。
脈は……ある。しかし、ひどく弱い。濃密な瘴気が全身を覆い尽くそうとしている。
エリーゼが「浄化を試みますが……瘴気が深すぎて」と苦渋の表情で眉をひそめる。
ルミナリアが聖具を取り出したが「二度目が効くかどうか……」と、取り返しのつかない事態を恐れて躊躇している。
「……間に合うか」
ヘンドリックが静かに呟いた。
カトリーヌが倒れた兄の手を両手で握り、ポロポロと涙を流して震えている。
その時だった。
重苦しい廊下から、場違いなほど陽気な声が響いてきた。
「皆おらんのじゃぞい!! 面白い話をしておったのに、いなくなってしまったんじゃぞい! ワシも参加するんじゃぞい!!」
応接室の床が、モコモコと不自然に盛り上がった。
ぞいの子が、地面から勢いよく飛び出した。
ちょうど、倒れているヴァレリウスの真下から。
ドゴッ。
地中からの凄まじい突き上げを食らい、ヴァレリウスの体が弾かれて横にずれた。
ぞいの子が勢いよく顔を上げると、目の前に涙を流すカトリーヌが立っていた。
「……おお! これじゃあ!!」
バサッ。
「きゃっ!?」
カトリーヌが悲鳴を上げた。ぞいの子が、流れるような動作でスカートをめくったのだ。
その瞬間。
瘴気に飲まれかけていたヴァレリウスの目が、かっと見開かれた。
「……カトリーヌに、何をしている」
か細いが、地を這うような確かな声だった。
「生きてる!!」
ミラが叫んだ。
ヘンドリックは即座に回復魔法Lv1を最大出力で発動した。魔力を一切惜しまず、全力でヴァレリウスの全身に流し込む。
同時にエリーゼが精霊魔法で瘴気を外側から浄化し、ルミナリアが聖具を真っ向から押し当てる。
三人の力が合わさり、公爵を覆っていた漆黒の霧が少しずつ、確実に薄れていく。
やがて、ヴァレリウスが深く息を吸い込んだ。
「……やれやれ。随分と、賑やかなところで目が覚めたな」
カトリーヌが泣きながら「兄上のばか!!」と叫んで抱きついた。
「痛い、カトリーヌ。頭を叩くな」
「叩きますわ!!」
ヴァレリウスがうっすらと目を細め、部屋の中を見回した。
「……しかし。なぜわしは、地面から出てきた蟲に起こされているのだ」
全員の冷ややかな視線が、ぞいの子に向いた。
「我輩が助けたんじゃぞい! 感謝するんじゃぞい!」
胸を張るぞいの子。しかし次の瞬間、ベルナデッタの無慈悲なモップが一閃し、ぞいの子は壁に深々とめり込んだ。
「……カトリーヌ様に何をしたか、分かっていますね」
「い、痛いんじゃぞい……っ」
「後で覚えていなさい」
女の土の精霊が、またしても「あほーなんじゃ」とため息をついた。
一連の騒動を、ヘンドリックは少し離れた場所から遠い目で眺めていた。
『……空気が読めないのが、たまに役に立つんだよな』
「ヘンドリック君」
ヴァレリウスが身を起こし、静かに声をかけてきた。
「……目が覚めましたか」
「ああ。……すまなかったな。わしが知らぬうちに、ずいぶんと利用されていたようだ」
「被害者ですよ。謝らなくていい」
「しかし……」
「謝らなくていい」
ヘンドリックのぶっきらぼうな返答に、ヴァレリウスはしばらく黙って、それからニヤリと笑った。
「……相変わらず、不器用な優しさだな、君は」
「そうですか」
「ああ。……これから、片をつけに行くのだろう?」
「ええ」
「ならば……この老いぼれも、できる範囲で力を貸そう。命の恩人を、また危険な目に遭わせるわけにはいかないからな」
ヘンドリックは少し黙り、小柄な背中を丸めたまま答えた。
「……ありがとうございます」
ヴァレリウスがまたニヤリとした。
「礼を言うのは、終わってからにしてくれ。縁起が悪い」
応接室に、少しだけ温かい空気が戻った。




