第276話:裏帳簿と、妹への報告と、崩れる信頼
夜が明け始めた頃。修復作業の続く公爵邸に、ヘンドリックは帰還した。
出迎えた妻たちが、土と血の匂いを微かに纏う小柄な夫を見て「どうだった」と短く問う。
「……片付いた」
ヘンドリックはそれだけ言って、懐から血に濡れた手帳を取り出し、テーブルの上に置いた。
その禍々しい気配と血痕に、全員が息を呑んで沈黙する。
「シリルと闇の商人に解析を頼みたい。今日中にだ」
控えていたアルフォンスが「すぐに手配いたします」と一礼して動き出す。
ヘンドリックは小さく頷き、踵を返した。
「その前に……城に行く。妹に、伝えることがある」
◇ ◇ ◇
王城の一室。
侍女として働く妹が、仕事の合間を縫って時間を作ってくれた。
窓から差し込む朝日の中、ヘンドリックは静かに口を開いた。
「……父親が、死んだ」
妹はしばらく黙っていた。驚きも、悲しみも顔には出さず、ただ静かに事実を飲み込んでいるようだった。
「……最後は、ちゃんとしたの?」
「ああ。スラムの連中を逃がして、俺たちにこの手がかりを残した」
妹がゆっくりと頷く。
「……そうか。よかった」
彼女は泣かなかった。ただ少し間を置いて、眩しそうに窓の外の青空を見上げた。
「お母さんには……私から手紙を書くよ」
「頼む」
二人の間に、どこか憑き物が落ちたような、静かな空気が流れる。
ふと、妹がヘンドリックの顔を見て笑った。
「お兄ちゃん、顔色悪いよ。ちゃんと寝た?」
「寝てない」
「だめじゃん」
相変わらずの調子で笑う妹に、ヘンドリックの曲がった背中から、ほんの少しだけ力が抜けた。
◇ ◇ ◇
城の廊下を歩いていると、アイシャとルークに鉢合わせた。
「……妹さんに会いに来たの?」
アイシャが、ヘンドリックの顔を覗き込みながら尋ねてくる。
「ああ。色々あってな」
「大変だったのね。……顔に出てるわよ」
心配そうなアイシャの隣で、ルークが頭を掻きながら飄々と言った。
「まあ、生きてれば何とかなるっすよ」
その適当だが裏表のない言葉に、ヘンドリックは少しだけ笑みを零した。
「……そうだな」
短いやり取りだった。深くは聞いてこない。だが、その距離感が今のヘンドリックには温かかった。
◇ ◇ ◇
屋敷に戻ると、すでにシリルと闇の商人が手帳の解析を始めていた。
「この暗号……組織の上層部が使う形式ですね。かなり複雑ですが、規則性は見えます」
闇の商人が淡々と解読を進めていく。
しかし、途中でページをめくったシリルの顔が、みるみるうちに青ざめていった。
「……閣下」
「何だ」
「この暗号の形式……魔術師ギルドの内部で使われている高度な通信形式と、完全に一致します」
その場にいた全員の動きがピタリと止まる。
手帳を持ったシリルの手が、小刻みに震えていた。普段の彼からは想像もつかない、深い絶望の表情だった。
「……私が収集した世界樹のデータ。研究結果の報告書。全部……ギルドを通じて、この組織に流れていたということですか」
ヘンドリックは黙ってシリルを見つめている。
「私は……ずっと、利用されていたのか……っ」
シリルは力なく手帳を閉じ、そのまま椅子に深く沈み込んだ。
◇ ◇ ◇
城から屋敷へ戻ってきた妹が、廊下の隅でうなだれているシリルを見つけた。
「……シリルさん、どうしたんですか?」
「……いえ、何でもありません」
「顔色がうちの兄より悪いですよ」
シリルは自嘲するように苦笑いした。
「……私は長い間、知らずに悪事に加担していたようなのです。収集したデータを悪用されて。研究者として……最悪の失態です」
妹は黙ってシリルの話を聞いていた。そして、しばらく考えてから、あっさりと言った。
「シリルさんが集めたデータは、本物じゃないですか」
「……え?」
「利用されたことと、シリルさんがやったことが無駄だったのは、別の話ですよ。世界樹のデータは本物で、シリルさんが本気で研究したのも本物。それを悪用した人が悪いんであって、シリルさんが悪いわけじゃないでしょう?」
シリルは、雷に打たれたように固まった。
「……そういう考え方は、したことがなかった」
「落ち込むのは後でいくらでもできますよ。今は、そのデータをちゃんと使える人のために役立ててください」
妹はそれだけ言うと、いつもの足取りで歩いていった。
シリルは、ぼんやりとその小さな背中を見送っていた。
◇ ◇ ◇
深夜。
闇の商人とシリルが、ついに解析を終えた。
「……黒幕の名前が、出ました」
リビングに全員が集まる。
シリルが告げたのは、魔術師ギルドの最高幹部であり、国王の顧問も兼任しているという人物だった。
さらに、そこにはヴァレリウス公爵との繋がりも克明に記録されていた。
「……ヴァレリウス公爵が、操られていた可能性があります」
エリーゼが「それは……」と息を呑み、口を閉ざす。
ヘンドリックは、静かに目を伏せた。
「……あの爺さんは、本物だった。操られていたなら、それは被害者だ」
「どうするんですか、閣下」
イリスの問いに、ヘンドリックはゆっくりと立ち上がった。
小柄で猫背なその背中から、静かで、しかし圧倒的な圧力が放たれる。
「片をつけに行く」




