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レベル1を35個持ったおっさん、有能すぎて美女三人に包囲される〜レベル10大火力至上主義の世界で裏方が最強だった〜  作者: よっしぃ@書籍化


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第275話:番外編・男の意地、最後の贖罪

 王都の地下に広がる、光の届かないスラムの最下層。

 

 湿ったカビと腐臭が漂う入り組んだ裏路地を、一人の老いた男が血だるまになって這いずっていた。

 

 腹部と太ももから絶え間なく血が流れ出し、地面にどす黒い軌跡を描いている。荒々しい呼吸のたびに肺がヒューヒューと鳴り、視界はとうの昔に赤く霞んでいた。

 

「……は、はっ」

 

 背後からは、確実な死を運んでくる追手たちの足音が迫っている。暗殺に長けた幹部の直属の部下たちだ。素人である男が逃げ切れる相手ではない。

 

 だが、男の右手には、先ほど幹部の隙を突いて奪い取った血濡れの手帳がしっかりと握られていた。

 

 事の発端は、ほんの少しの好奇心だった。

 

 幹部の機嫌をとるために部屋へ安酒を運んだ際、机の上に無造作に置かれていた分厚い計画書と、見慣れない禍々しい仮面が目に入った。

 

 仮面の裏側には、鋭い棘のようなものが無数に生えており、額に当たる部分には赤黒く濁った魔石が埋め込まれていた。

 

 幹部がほくそ笑みながら語ったその計画は、男の想像を絶するおぞましいものだった。

 

『あのバカげた計画……スラムの連中を化け物にするだと? ふざけるな』

 

 手帳に記されていたのは、その魔石を埋め込んだ仮面を使って、スラムの住人たちの自我を完全に破壊し、痛覚のない肉人形として操るという狂気の実験だった。

 

 自分は救いようのないクズだ。家族を捨て、借金を踏み倒し、泥水をすすって生きてきた。裏切りも嘘も、息を吐くように繰り返してきた。

 

 だが、それでも。だからこそ、スラムでただ必死に生きているだけの連中が、あんなふざけた道具にされるのだけは、どうしても許せなかった。

 

 俺たちは底辺のゴミかもしれないが、誰かの便利な操り人形じゃない。

 

 その底辺の矜持が、男にナイフを抜かせた。

 

 幹部が計画書から目を離した一瞬の隙。男は震える手で懐の安物のナイフを抜き放ち、振り返りざまに幹部の横腹に深々と突き立てた。幹部が驚愕に目を見開き、悲鳴を上げる間もなく、男は手帳を奪い取って駆け出した。

 

「ここは襲撃を受けるぞ! 皆殺しにされる! 命が惜しけりゃ、さっさと逃げろ!」

 

 逃走の道すがら、男は血を吐くような声で叫び続けた。

 

 普段なら絶対にしないような真似だ。自分だけが助かればそれでいいと生きてきたはずだった。だが、男の必死の喚き声を聞いたスラムの住人たちは、危機を察知して蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

 

 その分、追手である暗殺者たちの殺意は、すべて男一人に集中することになった。

 

 スラムの地理を知り尽くしている男は、崩れかけの柱を蹴り倒し、屋台の油壺をひっくり返して火を放ち、泥臭い罠を次々と発動させながら死に物狂いで逃げた。

 

 それでも、プロの暗殺者から逃げ切れるはずがなかった。背中に投げナイフを受け、太ももを斬り裂かれ、ついには路地の角で腹部を深々と刺された。

 

 なんとか追手の目をごまかして死角に転がり込んだものの、もはや長くは持たない。

 

「……ははっは……ここに行きつく、とか……」

 

 壁にすがりつきながら、男は自嘲するように笑った。

 

 這うようにして逃げ込んだ先は、見覚えのある袋小路。かつて、自分が妻と幼い息子と共に住んでいた、今では屋根も壁も崩れ落ちたボロ家の跡地だった。

 

 追手の足音が、路地の入り口を完全に塞ぐ。

 

 もう逃げ場はない。そう思われた瞬間、男の脳裏にずっと昔の、色褪せた記憶がフラッシュバックした。

 

『父さん、ここ床が腐ってて危ないよ』

 

『ああ、わかってる。今度、父さんがしっかり直しておくからな』

 

 結局、直すことのなかった約束。酒とギャンブルに溺れ、家族から逃げるように捨てたあの家。

 

 男は血の混じった唾を吐き捨て、腐った床板が残っている一角へ這いずった。そして、残された最後の力を振り絞り、そこへ自分の全体重を乗せた。

 

「……確か、ここが弱かったな……ッ!」

 

 男が床板を強く踏み抜いた瞬間、鈍い音と共に、その体は床下の暗い隠し空洞へと真っ逆さまに落下していった。

 

 土煙が舞う中、上空で追手たちが舌打ちをする声が聞こえる。「どこへ消えた」「チィッ、もう時間がねえ。公爵が来る前に撤収だ!」という苛立った声が遠ざかっていく。

 

 どうやら、追手たちは手帳を諦めたらしい。

 

 暗く冷たい地下空間。

 

 崩れ落ちたガラクタに埋もれながら、男は仰向けのまま静かに息を吐いた。

 

 皮肉なものだ。家族から逃げ続けた男が、最後に命を懸けて逃げ込んだ先が、かつて捨てたはずの家だったのだから。

 

「……あいつ、大きくなってたな……」

 

 酒場で会った、あの恐ろしい気配を纏った青年の姿を思い出す。

 

 こんなクズの親父に、手向けのエール代を置いていくような、甘くて、不器用な男。

 

 小柄で、少し猫背で。それでも、自分なんかよりずっと大きく、途方もなく強い男になっていた。

 

「……少しは、親父らしい役に、立ったか……?」

 

 誰に聞くでもなく呟きながら、男は血塗られた手帳を胸に強く抱き込んだ。

 

 これさえあいつに渡れば、あいつの家族も、スラムの連中も助かる。俺の命の代金にしては、上出来すぎる取引だ。

 

 暗闇の中、幻のように妻の優しい声と、幼い息子が無邪気に笑う声が聞こえた気がした。

 

 男はわずかに口角を上げ、不格好に笑った。

 

 そして、動かなくなった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 どのくらい経ったか。

 

 薄れゆく意識の中で、男は思った。

 

『……最後に、父親らしいことは……できただろうか』

 

 もう言葉を発する力も、目を開ける力も残っていなかった。

 

 ただ、気配だけを感じた。誰かが傍らにしゃがみ込む、静かな気配。

 

 そして男には、その誰かが小さく頷いた気がした。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 崩れた床板の上から、微かな光が差し込んだ。

 

 板が静かに取り除かれ、暗い空洞の中を覗き込む影があった。

 

「……ここにいたのか」

 

 ヘンドリックの声だった。

 

 男の胸に固く抱かれた血塗れの手帳を見て、ヘンドリックはしばらく動かなかった。

 

 それから、そっと手帳を受け取り、男の目を静かに閉ざした。

 

「……ご苦労だったな」

 

 誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。

 

 スラムの冷たい夜が、静かに明けていこうとしていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 それから、しばらくして。

 

 かつて家族が暮らした家の跡地に、一つの粗末な墓標が建っていた。

 

 名前はない。ただ、誰かが丁寧に磨いた小さな石が置かれていた。

 

 スラムの住人たちは、誰がそれを建てたか、知らない。

 

 知っているのは、時折その前に立って、しばらく空を見上げてから立ち去る、小柄な猫背の男のことだけだった。

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