第274話:最期の意地と、帰るべき場所
深夜のスラム。組織の拠点と目されていた地下の巨大な倉庫を調べ終えたヘンドリックは、闇の精霊の導きでさらに奥の路地へと向かっていた。
闇の精霊が影の中から静かに告げた。
「……この先に、気配があります」
辿り着いたのは、崩れかけた家の跡地だった。かつて屋根も壁も揃っていたはずの建物は、今や半分以上が朽ち果てている。
もぬけの殻ではあるが、整然と撤退したわけではない。床には無数の書類が散乱し、椅子や机が粉々に砕け散っている。壁には深い斬撃の跡が幾つも刻まれ、どす黒い血飛沫が点々と続いていた。
直前までここで、絶望的で一方的な死闘が繰り広げられていたことは明白だった。
無関係なスラムの住人たちどころか、組織の末端の姿すらない。
「……どういうことだ」
イリスが警戒しながら周囲を探り、やがて床に落ちていた砕けた罠の残骸を指差した。
「閣下。これは……プロの逃走経路ではありません。誰かが意図的に罠を張り巡らせて暴れ回り、上層部の暗殺者たちを相手に『しんがり』を務めて、末端の者たちを逃がした痕跡です」
スラムの小悪党ならではの、泥臭く、死に物狂いの時間稼ぎ。
ヘンドリックの足が、ピタリと止まった。
跡地のさらに奥、崩れた床板の隙間から、むせ返るような濃い血の匂いが漂ってきた。
ヘンドリックが床板を剥がすと、暗い空洞の中に一人の老いた男が倒れていた。
全身に無数の切り傷を負い、腹部には深々と刃物が突き立てられた跡がある。致命傷だった。床には血の海が広がり、男の命がすでに尽きかけていることを示していた。
「……親父」
ヘンドリックの声に、男がゆっくりと濁った目を開けた。
「……なんで、ここにいる」
掠れた、肺から空気が漏れるような声だった。
「お前が逃がしたのか。スラムの連中を」
男は答えなかった。ただ、血に染まった口元を歪めて、自嘲するように笑った。
ヘンドリックは無言で男の前にしゃがみ込み、手をかざそうとした。治癒魔法か、あるいはポーションを取り出そうとしたのかもしれない。
「……よせ」
男が震える血まみれの手で、ヘンドリックの腕を弱々しく払った。
「もう……いい。俺の役目は、終わった」
男は、かすむ目で目の前にいる猫背の男を見た。
「……なんで、だろうな」
途切れ途切れの呼吸の中で、男は言葉を紡いだ。
「……お前に、いいところを……見せたかった……のかもしれん……」
ヘンドリックは差し出しかけた手をゆっくりと下ろし、ただ無言で立ち尽くしていた。
男の呼吸が、いよいよ浅くなる。
焦点を失いかけた目が宙を彷徨い、やがてヘンドリックの顔で止まった。
「……こんな父親で、悪かったな」
それが、最後の言葉だった。
男の首がガクリと垂れ、二度と動かなくなった。
ヘンドリックはしばらくの間、ただ静かにその骸を見下ろしていた。
三十五歳の便利屋の顔には、怒りも、悲しみも浮かんでいなかった。ただ、どうしようもない徒労感だけが漂っていた。
やがて、男の右手が何かを固く握りしめていることに気がつく。
そっと硬直しかけた指を開かせると、そこには血に濡れた小さな手帳が握られていた。
組織の上層部との繋がりを示す、暗号化された裏帳簿。
男が逃げ出す間際、自分の命と引き換えに上役から奪い取った、唯一の意地だった。
「……本当に、バカな男だ」
ヘンドリックは血塗られた手帳を懐にしまい、男の開いたままの目をそっと閉ざした。
スラムの冷たい地下室に、重い沈黙だけが残った。
◇ ◇ ◇
夜明け前。
世界樹の根元にある公爵邸の前に、ヘンドリックは立っていた。
血と埃に塗れたローブを軽く払い、重い扉を開ける。
リビングには、暖炉の温かい火が灯っていた。
そして、眠らずに帰りを待っていた妻たちが、一斉にこちらを振り向いた。
「……帰ったぞ」
ヘンドリックが短く言うと、一番に魔王がツカツカと歩み寄ってきた。
「何、しけた顔してんだよ!」
ぶっきらぼうな口調で言いながらも、その赤い瞳は心配そうに揺れている。
「……別に、しけてない」
言い返そうとしたヘンドリックの胸に、エリーゼがふわりと飛び込んできた。
細い腕が、少し丸まった三十五歳の背中をそっと、包み込むように抱きしめる。
「頑張りましたね、旦那様」
耳元で囁かれたその優しい声に、ヘンドリックの肩がわずかに震えた。
「……目から、汗が出たみたいだ」
ヘンドリックが不器用に顔を逸らすと、ミラが尻尾をパタパタと揺らしながら、湯気の立つマグカップを両手で差し出してきた。
「ボス! これでも飲んで元気を出すんだぞ!」
「……ああ。ありがとう、ミラ」
それを受け取ろうとした手が、微かに血で汚れているのに気づき、ヘンドリックは手を止めた。
すると、サンネが静かに歩み寄り、温かく湿った清潔な布を無言で差し出した。
「……お疲れ様でした。これで拭いてください」
「……すまない、サンネ」
布を受け取り、手と顔を拭う。
温かい温度と、邸宅の匂いが、ヘンドリックの張り詰めていた心をゆっくりと解きほぐしていく。
最後に、ルミナリアが静かな足取りで近づいてきた。
彼女は王女としての威厳と、妻としての深い慈愛を込めた瞳で、ヘンドリックの顔を見上げた。
「……後悔しとらんのじゃな?」
その問いに、ヘンドリックは小さく息を吐き、そして、力強く頷いた。
「……ああ。俺には、帰る場所があるからな」
窓の外が白み始め、新しい朝の光が公爵邸を包み込み始めていた。




