第273話:スラムの酒場と、沈黙の親子
王都の地下に広がるスラム。そのさらに奥まった場所にある、カビと安酒、そして錆びた鉄の匂いが染み付いた薄暗い酒場。
男はカウンターの一番隅の席で、小刻みに震える手でグラスを呷っていた。
組織の拠点が、今日だけで三つも潰された。上層部は完全に浮き足立ち、中間管理職である自分は、いつトカゲの尻尾切りとして消されてもおかしくない状況だ。隣に座る若い子分たちも、絶望的な状況を酒で紛らわす以外に何もできずにいた。
その時だった。
きしむ木の扉が開き、隣の空席に、スッと小柄な男が腰を下ろした。
「……マスター。一番安いエールを」
落ち着いた、低くよく通る声だった。
男は弾かれたように隣を見た。
くたびれたローブに、猫背の貧相な体躯。一見すればどこにでもいるうらぶれた男だ。しかし、その身から発せられる静かすぎる気配は、スラムで生きるゴロツキたちとは明らかに次元が違っていた。
「…………っ」
男の喉から、ヒュッと息が漏れた。
ヘンドリックは、隣の男に視線すら向けない。ただ静かに、カウンターに置かれた濁ったエールを見つめている。
「……拠点の見張りは、随分と杜撰だったな」
「お、お前……なんで、ここに……っ」
「静かに飲め」
ヘンドリックはそれだけ言って、エールを一口飲んだ。
危険を察知した男の子分たちが、慌てて腰の武器に手を掛け、立ち上がろうとしたその瞬間。
ヘンドリックの足元の影から、音もなく、底知れない闇が這い出した。
それは無数の暗い刃となり、子分たちの首筋、腕、足首にピタリと添えられた。彼らが息を吸い込むよりも早く、全てが完全に押さえ込まれていた。
「動かない方がいい。俺の影は、俺より気が短い」
殺気すらないヘンドリックの言葉に、子分たちが石のように固まった。
男は全身を震わせながら、懐に隠し持ったナイフに手を伸ばそうとした。しかし指先が柄に触れる前に、影の刃がその手首をそっと、しかし絶対的な力で押さえつけた。
「……」
ヘンドリックはまだ前を向いたまま、エールのグラスを傾けている。
隣の男の息遣いが聞こえる。荒く、少し掠れた、余裕のない呼吸。
ヘンドリックはグラスの氷が溶ける音を聞きながら、横目で少しだけ男の姿を捉えた。
白髪が混じり、薄くなった髪。シワの深く刻まれた首筋。貧相になった肩幅。
『……老いたな』
ヘンドリックの胸に浮かんだのは、激しい怒りでも憎しみでもなかった。
幼い頃、見上げるほど巨大で、絶対的な恐怖の対象だった父親。家族を捨てた身勝手な男は、今や威圧感の欠片もない、ただの怯える老人にしか見えなかった。
しばらくの重い沈黙の後、ヘンドリックが静かに口を開いた。
「お前の上に伝えろ。今夜の夜明けまでに王都から消えなければ、俺が直々に全て潰す、と」
「ま、待て……っ!」
男が、絞り出すような震える声で言った。
「俺は……俺はお前の父親だぞ! 血を分けた親子じゃないか! 頼む、情けをかけてくれ!」
ヘンドリックが、初めて隣の男を見た。
氷のように冷たい、一瞥だった。
「……人違いだろ」
それだけ言って、ヘンドリックは視線を戻した。
男が何かを言いかけたが、絶望に喉が引きつり、声にならなかった。
ヘンドリックは懐から小銭を取り出し、カウンターに置いた。エール一杯分より、少しだけ多い。
「……父さんの分も、払っておく」
立ち上がり、ローブの襟を正した。
「……母さんと妹は、仲良くやってるよ。……これはひとりごとだがな」
ヘンドリックは小さくため息をつき、曲がった背筋を少しだけ伸ばした。
「逃げろ。次に会う時は、こうはいかない」
振り返ることなく、ヘンドリックは酒場を出た。
◇ ◇ ◇
夜の路地。
ヘンドリックは少し歩いてから、立ち止まった。
「……ありがとう」
影の中から、ミニベルナデッタの姿をした闇の精霊の静かな声が返ってきた。
「……いつもこうしていますので。お気になさらず」
ヘンドリックは少しだけ、夜空を見上げた。
『……終わった。そういう話だ』
スラムの冷たい夜風が、路地を吹き抜けていった。




