第272話:今更の公爵と、スラムの記憶と、知られざる家族
イリスや闇の商人たちからの帰還報告が一段落し、応接室に少しだけ落ち着いた空気が戻った時のことだった。
お茶を飲んでいたヘンドリックが、ふと思い出したように顔を上げた。
「……なあ。俺、もしかして公爵になってる?」
全員が「え?」という顔をした。
エリーゼがお茶を注ぐ手を止め、サンネが瞬きをし、魔王が怪訝そうな顔をする。
沈黙を破ったのは、アルフォンスだった。
彼は静かに眼鏡を押し上げ、まるで「今日の天気は晴れですね」とでも言うような平坦な声で答えた。
「……ずいぶん前から公爵ですよ、閣下。追放されるずっと前から」
ヘンドリックの動きが、完全に固まった。
『……知らなかった』
部屋中に「今更ですか?」という呆れた空気が充満する。
エリーゼが、困ったように微笑んだ。
「……旦那様。以前、秘密裏に昇格の手続きが完了しておりましたのよ」
「なんで誰も言わなかった」
「旦那様がご自身で気づかれていないだけだと思っておりましたわ」
ヘンドリックは深く息を吐き、天井を見上げて遠い目をした。
『……侯爵だと思って諦めていたのに、すでに公爵だったのか。スローライフが、見えないところまで遠のいた』
◇ ◇ ◇
小さいため息をつくヘンドリックを見て、エリーゼがふと言った。
「……そういえば旦那様。わたくし、旦那様の『苗字』をお聞きしたことがありませんでしたわ」
その言葉に、全員がハッと気づいたようにヘンドリックを見た。
言われてみれば、彼はこれまでずっと『ヘンドリック』という名前しか名乗っていない。
「俺はヘンドリックだけだ」
「家名がないのですか?」
「ない。……正確には、名乗りたくない」
ヘンドリックが少しだけ目を伏せた。
少しの間が空く。重い空気になりかけたのを察したのか、サンネが口を開いた。
「私はベルンハルト家の出だ。今は出奔した身だが」
「獣人族は苗字を持たないんだゾ。ボスがつけてくれてもいいんだゾ」
「わたくしにはエルフの本名がございますが、長すぎて省略しておりますわ」
「わらわは王家の名があるが、今はヘンドリックを名乗るのじゃ。それでよいじゃろ?」
「アタシのフルネームは知ってるだろ。ヘンドリックを名乗るからもう関係ない」
魔王が顔を赤くしながらそっぽを向いた。
五人の妻たちが、それぞれに微笑んでいる。
全員の視線が、再びヘンドリックに戻った。
彼は少しだけ困ったように笑い、静かに首を振った。
「……いつか話す。今は、まだ言えない」
それだけ言って、ヘンドリックは無理やり話題を元に戻した。
◇ ◇ ◇
イリスが、懐から分厚い報告書をテーブルに広げた。
「スラムの調査で、組織の残党の拠点を三か所確認しました。上層部の所在についても、いくつか手がかりが」
「よくやった」
「……それと」
闇の商人が、少し言い淀むように間を置いた。
「内部文書の解読中に……一つ、気になる名前がありまして」
「何だ」
「……もう少し調べてから報告します。まだ確信が持てていないので」
言葉を濁す闇の商人。だが、その顔はどこか深刻だった。
ヘンドリックは追及せず、静かに頷いた。
「……スラムに行く」
全員が少し驚いた顔をした。
「二度と行くまいと思っていたが……情報収集には使える」
立ち上がったヘンドリックに、エリーゼがすかさず「お供いたしますわ」と進み出た。サンネも剣の柄に手をかける。
「一人でいい」
「旦那様」
「一人でいい」
決して譲らない、強い声だった。
その声音に何かを感じ取ったのか、エリーゼは小さくお辞儀をして引き下がった。
◇ ◇ ◇
王都の裏側。日の当たらないスラム街へと向かう道中。
ヘンドリックの足取りは重かった。同行者はいない。ただ、影の中に潜む闇の精霊だけがついてきている。
『……王都のスラム。俺と、腹違いの妹が生まれた場所だ』
悪臭と暴力が支配する街。そこから這い上がり、便利屋として血反吐を吐く思いで金を稼ぎ続けてきたのには、理由があった。
『母さんは今、水の都にいる。妹が王城でルミナリアの侍女見習いになってからは、ずっと一人で暮らしているはずだ。……次に会いに行けるのはいつになるか』
彼が定期的にパーティーを抜け、姿を消していた理由。それは、水の都にいる母親と妹に会いに行くためだった。
『親父のことは……もう怒る気もない』
自分たちを捨てた、組織と繋がっているかもしれない男。
もしあの男が今回の騒動に一枚噛んでいるなら、俺が片をつけなければならない。
路地裏を歩きながら、ふと、もう一つの過去が脳裏をよぎった。
『……俺は昔、一度だけ逃げ出したことがある』
アイシャが重傷を負った時のことだ。
彼女が魔族だとは知らなかった俺は、自分のせいで彼女が死ぬかもしれないという罪悪感で、正気を失いかけた。
『水の都にいる母さんにアイシャの治療費と生活費を託して、姿をくらませた。「あいつの面倒を見てやってくれ」と』
だが、落ち着きを取り戻して戻った時、アイシャはもういなかった。
ダンジョンの罠で重傷を負った時、実際は俺が直接悪いわけではないんだが、あの時俺は警戒させるべきだったのに怠った。俺の力が足りなくて守れなかった。同じことだ。途中で逃げ出して、もう関わりたくないと思ったんだろう。当然だ。背中を預けるに値しない男だと、俺自身が一番よく知っていた。
『……大事な人間を、これ以上傷つけたくない』
それが、パーティーメンバーとの恋愛を禁じ、妹を守ることで精神のバランスを保とうとしてきた理由だ。
必死に稼ぎ続けてきたのも、母さんと妹を養うためと……あの時の罪滅ぼしのためだったのかもしれない。
『……元気でいることを知ったのは、ずっと後のことだ』
路地の先に、かつて通い慣れたギルドの建物が見えた。
『そんな俺でもギルドは頼ってきた。新人の面倒を見てくれ、問題のあるパーティーを何とかしてくれ……最初は任されたと嬉々として取り組んでいたが、時折とんでもない不良物件をつかまされることもあったっけな』
思い出したら少し頭が痛くなった。
◇ ◇ ◇
昔の知り合いであるスラムの老人や、顔見知りの商人に探りを入れる。
組織の残党の動き。そして、親父の名前。
情報を集め終え、ヘンドリックは崩れかけたレンガの壁に寄りかかった。
空を覆い隠すような、スラムの歪な屋根を見上げる。
『……ここで生まれて、ここから逃げ出して。今は公爵だ』
泥水をすすり、生きるために何でもやった。逃げて、後悔して、それでも稼ぎ続けた自分が。
今は五人の妻を持ち、王族と縁を結び、この国の運命を左右する地位にいる。
『……笑えない話だ』
三十五歳の男は、誰に聞こえるわけでもなく、自嘲するように小さく息を吐いた。
影の中で、闇の精霊だけが、主の痛みに寄り添うように静かに揺れていた。
● 作者からのお知らせ ●
緊急投稿です! いつも応援いただきありがとうございます。
ご報告ですが、別作品で書籍化いただいている『45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる』の第3巻が、7月上旬に刊行決定となりました。夏にはコミカライズの連載もスタート予定です。
本作ともども、引き続きよろしくお願いいたします!」




