第269話:魔王の涙と、誕生日のない女
あれから、何事もない穏やかな日々が続いていた。
世界樹の根元の公爵邸。Gたちは相変わらず人目につかない場所で黙々と仕事をしている。土の精霊たちは今日も庭のどこかで騒いでいる。ベルナデッタはモップを持って廊下を歩いている。
ただ一つ、気になることがあった。
魔王の元気がない。
日に日に、覇気が薄れていく。コロッセウムでの特訓の声も小さい。食事の量も減っている。ヘンドリックが「どうした」と声をかけるたびに「何でもない」「うっせえ」「ほっとけ」と返ってくる。
しかし三日目の夜、「あたしなんか……」という言葉が聞こえた気がした。
『……これは、放っておけないな』
◇ ◇ ◇
翌朝、ヘンドリックはコロッセウムに魔王を呼び出した。
「手合わせしよう」
「……あ? 今更アタシに勝てると思ってんのか」
「さあ」
魔王が腕を組んだ。いつもの不敵な笑みが、今日は少しぼんやりしている。
「……まあいい。相手してやる」
構えた。
ヘンドリックが【土魔法Lv1】【風魔法Lv1】を組み合わせて地面を揺らす。
魔王が跳んだ。しかし着地が甘い。
ヘンドリックが間髪入れず【水魔法Lv1】【土魔法Lv1】で足元を泥にする。
魔王がバランスを崩した。
次の瞬間、魔王はコロッセウムの砂に組み敷かれていた。
静寂。
「……」
魔王が動かない。
「降参か」
「……」
「おい」
「……アタシ、弱くなったのかな」
魔王がぼそりと言った。
「違う。心がここにない」
「…………」
「何かあるなら言え」
しばらく沈黙が続いた。
それから、魔王が砂を見つめたまま言った。
「……ルミナリアが、うらやましい」
「……うん」
「エリーゼが、うらやましい。サンネが、うらやましい。ミラが、うらやましい」
ヘンドリックが黙って聞いていた。
「あいつら全員、誕生日にそなたを一日独占できるじゃないか」
「……そうだな」
「アタシには……その権利がない」
ヘンドリックが少し眉をひそめた。
「条約に入っていないのか」
「条約を作った時は……アタシ、まだここにいなかったから」
それだけ言って、魔王の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
自分でも驚いたのか、慌てて袖で拭う。
「……な、泣いてない。砂が目に入った」
「砂まみれだもんな」
「うっさい」
しかしまた、涙がこぼれた。
「アタシだって……欲しいんだよ。そういう日が」
ヘンドリックは組み敷いていた手を離し、砂の上に座り直した。
「……それだけか」
「それだけじゃない」
魔王が顔を上げた。目が赤い。
「誕生日……ないんだよ、アタシ」
「……え?」
「ないんだ。数百年生きてきて、誕生日というものを持ったことがない」
ヘンドリックが黙っていた。
「魔族には誕生日を祝う習慣がない……それだけならまだよかった。でも、アタシの親は、アタシが生まれた時に、この子の将来を悲観して」
「悲観?」
「……名前を見ろ。マジカ・ルキャン・ディ。区切るとマジカルキャンディだ」
「……ああ」
「ふざけるな、あんな恥ずかしい名前! この先どれだけ苦労するか分かってたから、親がヤケになってつけやがったんだよ! だから誕生日も覚えてないし、記録もない! 笑いたければ笑え!」
ヘンドリックは笑わなかった。
「……そうか」
「……そうか、って」
「名前、恥ずかしいか」
「当たり前だろ!!」
「でも、今はヘンドリックを名乗るんだろ」
魔王が黙った。
「お前がどんな名前で生まれようが、今ここにいることは変わらない。誕生日がないなら、作ればいい」
「……作る?」
「今日から、ここに来た日を誕生日にしろ。俺が覚えておく」
魔王がしばらくヘンドリックを見た。
また涙がこぼれた。
「……泣いてない」
「砂だろ」
「砂だ」
「分かった」
◇ ◇ ◇
「……それで、条約はどうするんだ」
魔王が砂を払いながら言った。
「お前も入れる。当たり前だろ」
「……当たり前、なのか」
「うちの妻だろ」
魔王の耳が赤くなった。
「……べ、別にそういうつもりで言ったんじゃ」
「分かった」
「わかったじゃなくて!」
「分かった」
「……うっさい」
しかし魔王は、しばらく砂の上に座ったまま動かなかった。
その目は、もうぼんやりしていなかった。
『……元気になったんだけど……もっと違う顔をしてもらいたいからね』
ヘンドリックは立ち上がり、コロッセウムの出口へと歩き始めた。
「……ヘンドリック」
「何」
「……ありがとう」
「砂が目に入っただけだろ」
「……うっさい!!」
魔王の怒鳴り声が、コロッセウムに響いた。
いつもの声だった。




