第267話:妥協案と、知らなかった共犯者と、最強の一言
大浴場から脱衣所に出ると、廊下でヒロインたちが待っていた。
「……善処の結果はいかがでしたか、旦那様」
エリーゼが極上の笑顔で問う。まったく温度のない笑顔だった。
「……お前ら、聞いてたのか」
「扉越しに少々」
「……全部か」
「……全部ですわ」
ヘンドリックは遠い目をした。
◇ ◇ ◇
応接室に全員が集まった。国王、ヴァレリウス、ヒロインたち、そしてアルフォンス。
「……さて」
ヴァレリウスが紅茶を一口飲んで口を開いた。
「ヘンドリック君、そもそもの話をしようか。なぜ君に侯爵以上の爵位が必要だったか、覚えているかね」
「……ルミナリア王女が降嫁するため、格が必要だったからです」
「そうだ。では、その問題を解決すれば話が早い」
国王が重々しく頷いた。
「ヘンドリック公爵。ルミナリアと正式に婚姻を結べ。……その後、結果が出れば。そなたのお望みは、かなうだろう」
ヘンドリックはしばらく考えた。
『……婚姻の手続きさえすれば、その後は平民に戻れるかもしれない。ルミナリアとの婚姻が成立すれば、爵位の問題も解決する。そして子供が生まれれば、陛下も納得してくださるはずだ』
「……つまり、婚姻の手続きだけしてしまえば、その後は平民に戻れるんですよね?」
国王が少し間を置いた。滝のような冷や汗を流している。
「……そういうことに、なるやもしれぬ」
『……勝てる。これは勝てる展開だ』
ヘンドリックの目に、かすかな希望の光が宿った。
ヴァレリウスが、紅茶を飲みながらスッと視線を窓の外に向けた。
エリーゼとルミナリアが目を合わせた。二人だけに分かる、微かな、しかし決定的な目配せ。
◇ ◇ ◇
婚姻の手続きは、王の勅命により翌日執り行われることになった。
当日。
ヘンドリックが式の間に入ると、正面に五人が並んでいた。
エリーゼ。サンネ。ミラ。ルミナリア。
そして。
「……なぜ魔王がいる」
魔王マジカが、腕を組んで立っていた。
「うるさい。アタシも入る」
「これ、俺と王女の婚姻の話だぞ」
「知ってる」
「なんで」
「……なんでって言われても」
魔王が視線を逸らした。尖った耳が真っ赤に染まっている。
その隣で、見慣れた顔がにこにこと微笑んでいた。
ヘンドリックの妹だった。
「……お前がここにいるのはなんでだ」
「お兄ちゃんのためだよ?」
「どういう意味だ」
「私、エリーゼさんたちと、前からいろいろ話してたんだ」
「前から?」
「誕生日の独占作戦、実は私が最初に考えたんだよ。みんなに提案して」
ヘンドリックの動きがピタリと止まった。
「……お前が」
「お兄ちゃん、ずっと一人で抱え込んできたじゃん。誰かに甘えることを覚えてほしくて」
妹が小首を傾げてにこにこしている。
「それで、魔王はなんで」
「マジカお義姉ちゃん、すごくかっこいいんだもん。ぜひ一緒にって思って」
「お義姉ちゃん」
「お義姉ちゃん」
魔王の耳が、限界まで赤くなった。
「……べ、別にアタシはそういうつもりじゃ」
「お義姉ちゃん」
「……うっさい」
口ではそう言いながらも、魔王は明らかに嬉しそうだった。
ヘンドリックは、呆然としながら全員の顔を見回した。
エリーゼが静かに微笑んでいる。サンネが真っ直ぐこちらを見ている。ミラが尻尾をパタパタさせている。ルミナリアが扇子で口元を隠している。魔王が耳を赤くしながら視線を逸らしている。
そして妹が、満足そうに笑っている。
「……いや、でも待て。いくらなんでも五人同時なんて」
「おや、忘れたのかいヘンドリック君」
部屋の隅で、ヴァレリウス公爵が楽しそうに笑った。
「高位貴族にとって、優秀な血を広く残すことは法律で課せられた『義務』だよ。五人同時に妻を娶ることなど何の問題もないし、陛下も大賛成だ」
外堀(貴族の義務)も内堀(家族)も、完全に埋められていた。
「ふざけるな! 俺はそんな面倒な義務——」
「縁切るよ?」
妹が笑顔のまま、さらりと言った。
ヘンドリックの動きが、完全に止まった。
「……」
「お兄ちゃんのこと、ずっと心配してたんだよ。ここまでしてくれたみんなを、今更待てって言えるの?」
重い沈黙。
「…………」
「縁切るよ?」
「……分かった」
ヘンドリックは、借りてきた猫のように大人しくなった。
妹の「縁切るよ」は、王の命令よりも、魔王の魔法よりも、何よりも絶対的な破壊力を持っていた。
促されるまま、五人の名前が連なった羊皮紙にサインをしていく。
だが、一番下の名前を見て、ヘンドリックのペンが止まった。
「……なあ。この『マジカ・ルキャン・ディ』って」
「アタシのことだ。なんか文句あるか」
「いや……区切るところを変えると『マジカル・キャンディ』になるんだが。お前、そんな魔法少女みたいなファンシーな名前だったのか」
「うるさい! 親が勝手につけたんだよ! これからはヘンドリックを名乗るから関係ない!」
魔王が照れ隠しに叫んだ。
ヴァレリウスが部屋の隅で紅茶を飲みながら肩を揺らしている。
「……やあ、ヘンドリック君。羨ましいね」
「……一個も羨ましくありません」
「ハハハ」
◇ ◇ ◇
こうして、ヘンドリック・ヘンドリックは正式に、エリーゼ、サンネ、ミラ、ルミナリア、そしてマジカ・ルキャン・ディと法律上の夫婦となった。
当然ながら、彼が平民に戻れる気配は一切なかった。
そして何故かヘンドリックの姓と名はヘンドリックとなっていた。
◇ ◇ ◇
式が終わった直後だった。
「ヘンドリックよ」
ルミナリアが扇子をパチンと閉じ、真っ直ぐにこちらを見た。
「わらわの誕生日なのじゃ」
ヘンドリックの動きが止まった。
「……今日か」
「今日じゃ」
「……いや、結婚式の日にか?」
「わらわが今日に決めたのじゃ!」
考える隙を一切与えない、絶対王政の笑顔だった。
式の余韻も、連日の疲労も、平民への未練も、全部まとめて押し流すような圧倒的な笑顔。
「さあ、参ろう?」
三十五歳の便利屋は、ついに全てを諦め、観念したように天を仰いだ。
――その夜。
世界樹の根元で、妹が一人、嬉しそうに王都の夜空を見上げていた。
「お兄ちゃん、今が一番幸せじゃない?」
公爵邸の奥から、「……まあ、そうかもな」というかすかな声が聞こえた気がした。
『……皆が幸せになれるのなら、これでいい』
世界樹の枝葉が、祝福するように穏やかな風に揺れていた。




