第262話:記憶なき男と、五人の猛攻と、白目の結末
ズゴゴゴゴゴ……という重低音が、迷宮の最深部に作られた悪趣味なVIPルームに響き渡った。
ヘンドリックは豪華な金縁の玉座から立ち上がり、手元にあった『活動報告書』を、そっと自身の空間収納の奥底へとしまった。
『……来たか』
直後、部屋の壁が凄まじい轟音と共に崩れ落ち、巨大なドリルの先端が姿を現した。
間違いない。一週間の間に自分が暇つぶしでクラフトした、地中潜行用の魔導車だ。
『……なんで俺の作った乗り物が、寸分の狂いもなく俺を追いかけてきてるんだよ』
記憶喪失の便利屋が理不尽な現実に内心でツッコミを入れていると、魔導車の分厚い扉が勢いよく開き、土煙の中から五人の人影が飛び出してきた。
◇ ◇ ◇
「……逃げませんわね。今度は、絶対にわかっていただきますわ」
エリーゼが、杖を構えながら静かに言い放った。その瞳には、地の果てまでも追い詰めるという、絶対零度の逃亡不可避な意志が込められている。
「閣下。どうか話を聞いてください。今の状況を説明させて——」
「待て」
必死に歩み寄ろうとするサンネを、ヘンドリックは片手を上げて制止した。
「……俺は、今、記憶がない。あんたたちの顔も、名前も、自分との関係も、何一つ分からない。だが」
ヘンドリックは少しだけ間を置き、まっすぐに彼女たちを見据えた。
「さっき、自分の書いた報告書を読んだ。……だから、もう逃げるのはやめる」
その言葉に、五人がハッと息を呑む。
ヘンドリックは、肩の力を抜いて静かに告げた。
「なので、話を聞かせてくれ。俺が何者で……あんたたちと、何があったのかを」
◇ ◇ ◇
落ち着いた対話が始まるかと思われた。
しかし、エリーゼが口を開く前に、ルミナリアがドレスの懐から神々しい光を放つ王家の聖具を取り出した。
「……殿方。話をする前に、まずこれを試させてほしいのじゃ。もしかすると、記憶を強制的に戻せるやもしれぬ」
「それは?」
「かつて二度、そなたの呪いを解くために使ったことがある。三度目が効くかどうかは、わらわにも分からぬ。……じゃが、やらせてくれ」
ヘンドリックが静かに頷くと、ルミナリアは背伸びをして、その冷たい聖具を彼の額へとそっと押し当てた。
淡い、清らかな光が迷宮の最深部を照らす。
しかし。ヘンドリックはしばらく待ってから、困ったように首を横に振った。
「……すまん。何も変わらない気がする」
「そうか……」
ルミナリアが、痛切な表情で悔しそうに聖具をしまう。
重苦しい沈黙が部屋に落ちた。
その時、魔王マジカが不敵な笑みを浮かべ、腕を組んで一歩前に出た。
「……なら、別の方法を試すぞ」
「別の方法?」
「お前の体に直接、強い刺激を与える。人間の記憶ってのは、時々そういう物理的なショックで戻るもんだ」
ヘンドリックが訝しげに眉をひそめた。
「……どういう意味だ?」
「サンネ、ミラ。行くぞ」
魔王が二人に目配せをした。
◇ ◇ ◇
次の瞬間、ヘンドリックは三方向から同時に、逃げ場のない形で体を掴まれていた。
右腕には、魔王。左腕には、サンネ。そして正面からは、ミラがガッチリとしがみついてくる。
三十五歳の記憶喪失の男にとって、それはあまりにも致死量の接触だった。なにせ三人とも、その……報告書にも書いてあった通り、スタイルが、異常に、良すぎるのだ。
しかも近い。距離感が、バグっているかのように非常に近い。
「おい、思い出せそうか? ん?」
魔王マジカが、その豊満すぎる体型でヘンドリックの右腕を深く絡めとりながら、至近距離から挑発的に覗き込んでくる。
「…………っ」
「閣下……お体の具合はいかがですか。どこか痛むところは……」
サンネが反対側から、黄金比と称される引き締まった、しかし女性らしい柔らかな体を無自覚に押し付けるように密着してくる。
「…………っ」
「ボスぅ、アタシのこと、本当に思い出せないんだゾ? ねえ、ボスってば……」
ミラが正面から首に抱きつき、そのフワフワの銀色の耳と尻尾をヘンドリックの顔や胸元に擦り当てながら、上目遣いで甘えてくる。
「…………ぐっ」
ヘンドリックの鼻から、じわりと赤いものが滲んだ。
『こ……これは、まずい。非常にまずいんだけど……っ!』
記憶はなくても、三十五歳の健康な男としての生存本能(理性)が限界を告げていた。致死量の柔らかな感触と、三者三様の極上の甘い香りに当てられ、ヘンドリックの視界がぐるぐると回り始める。
その時だった。
部屋の奥で静かに佇んでいたエリーゼとルミナリアが、スッと視線を合わせた。
策士である二人だけに分かる、微かな、しかし決定的な目配せ。
エリーゼが、静かに前に進み出た。ルミナリアもそれに並んで歩いてくる。
二人は、先ほどの三人のような肉弾戦とも言える圧倒的な攻勢を取らなかった。ただ真っ直ぐに、深い慈愛に満ちた瞳でヘンドリックを見つめながら、そっと彼の目の前に立った。
エリーゼの、儚げでスレンダーな体型と、静かな想いが痛いほどに滲む横顔。
ルミナリアの、しなやかで完成された体型と、王女という重い立場の奥に隠した、ただの一人の女としての切実な表情。
慎ましく、しかし確かに、手が触れるほどの距離に二人が立っている。
「……旦那様」
エリーゼが低く、熱を帯びた柔らかい声で呼んだ。ただ、それだけだった。
だが、限界を迎えていたヘンドリックの脳裏に、先ほど読んだ報告書の『あの一文』がフラッシュバックする。
『……あの体型は俺の完全なドストライクなのだが』
ぶしゅっ。
限界を突破した盛大な鼻血が、二人の方向へと勢いよく飛んだ。
「っ!?」
「まあ……」
エリーゼとルミナリアの美しい服に、点々と赤い染みが広がる。
直後、ヘンドリックの目が、完全に真っ白になった。
彼はそのまま糸が切れたように、ゆっくりと後ろへ向かって倒れていった。
◇ ◇ ◇
……どのくらい経ったのか。
ヘンドリックは、静かに目を開けた。
冷たい岩の天井が見える。無駄に豪華な装飾。迷宮の最深部。
見覚えがある。自分が暇つぶしに作った、ヒャッハー城のVIPルームだ。
「……ん」
体を起こす。頭が少しぼんやりしているが、意識は驚くほどはっきりしている。
周囲には、見知った顔が五つ、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「エリーゼ、ルミナリア……お前たち、どうしたんだ。服が血で汚れているぞ。怪我か?」
二人が、パチクリと目を見合わせた。
「いえ、怪我ではありませんわ」
「……旦那様が原因ですわ」
意味が分からなかったが、まあいいかと思ってヘンドリックは視線を動かした。
「魔王、お前、またそんな格好で……。人前でその服はまずいだろうが。何か羽織れ」
「はあ? うっさい。これのどこが問題なんだよ」
「全部だよ」
ごく自然に、日常の説教(会話)が口をついて出る。
「サンネ、なにか俺の顔についているか? そんな泣きそうな顔で見るな」
「……い、いえ。ただ……閣下、その、記憶は……」
「ああ」
ヘンドリックは首をコキッと鳴らし、軽く頭を振った。
「戻った。なんか、強烈なショックのせいか、急に」
その言葉に、五人全員がピタリと彫像のように固まった。
「ミラ、なんだ。そんなに尻尾を逆立てて。……ああ、腹が減ってるのか? 実は俺も減ってる。なんか作るか」
「ちがっ……ボス……ボスぅ……!!」
ミラが、大粒の涙をボロボロとこぼしながら、弾丸のような勢いで飛びかかってきた。
「わっ」
そのまま、サンネが「閣下ぁぁっ!」と号泣しながら続く。
エリーゼが「旦那様っ……!」と杖を放り出して追いかけてくる。
ルミナリアが「わらわもじゃ!」と王女の矜持を捨てて飛び込んでくる。
魔王が「まったく、うるさい連中だ」と悪態をつきながら、それでも嬉しそうに腕を組んで覆い被さってくる。
「ちょっ……お前ら、いっぺんに抱きつくな……息が……っ」
五人分の圧倒的な重みと、むせ返るような体温、そしてドロドロに重い愛が、一気にヘンドリックへと押し寄せてくる。
「あ……息が……ぁ……」
グリンッ。
ヘンドリックの目が、またしても白くなった。
「だ、旦那様!?」
「ボス!?」
「だから……一人ずつにしろ、と……」
迷宮の最深部で。自分が作り上げたヒャッハー城の玉座の前で。
理不尽な追放から生還し、ようやく記憶を取り戻した最強の便利屋は、激重ヒロインたちの愛(物理)に押し潰され、この日二度目の白目を剥いた。
感動の帰還の挨拶は、もう少しだけ後回しになりそうだった。




