第259話:記憶なき逃亡と、土竜のタクシー
「……今、旦那様が土壁に縛り上げているその方々は、旦那様を慕って王都から駆けつけてきた、旦那様の奥様方ですわ」
ミニベルナデッタ姿の闇の精霊から告げられた、衝撃の事実。
ヘンドリックは、鋼のように硬い土の帯で壁に磔にされている五人の美女たちを、改めてまじまじと見つめた。
「ああ……旦那様。その困惑したお顔も素敵ですわ……」
「ボスぅ……早くアタシを解いて、いっぱい撫でてほしいんだゾ……」
「閣下、私が至らぬばかりにこのような手間を取らせてしまい……ですが、この拘束の強さ、閣下の愛の深さを感じます……!」
泥まみれになりながらも、彼女たちはヘンドリックに向けて恍惚とした熱い視線を送っている。怒りや恨みなど一ミクロンもなく、ただただ重すぎる愛と情念だけが、すり鉢状の地下空間にドロドロと充満していた。
『……いやいやいやいや!!』
記憶を失っているヘンドリックの背筋に、ゾクッと強烈な悪寒が走った。
彼の「便利屋としての危機察知能力」と、「スローライフを求めるおっさんの本能」が、脳内でけたたましい警報を鳴らし始めたのだ。
『あれはダメだ。騙されてはいけない。俺のスローライフ防衛本能が、あいつらは関わったら終わりだと言っている。妻だかなんだか知らないが、あのドロドロの目……捕まったら一生しゃぶり尽くされる』
記憶がなくても、魂に刻まれた直感が「逃げろ」と告げている。
だが、ここは周囲を土壁に囲まれた地下空間。天井は吹き飛んだものの、地上に登るには少しばかり高さがある。
「旦那様? どうされましたの? さあ、早くその帯を解いて……」
「わらわを一番に解くのじゃぞ、ヘンドリック……っ!」
ヒロインたちが身をよじり、色っぽい声で急かしてくる。
焦るヘンドリックが周囲を見渡した、まさにその時だった。
ズゴォォォォンッ!
「キュウッ!」
吹き飛んだシェルターの壁の向こう側から、巨大な地底ワームが顔を出したのだ。ヒロインたちをここまで運んできた、あのワームである。
ワームは、無傷で立っている主の姿を見つけると、嬉しさのあまり千切れんばかりに触角を振り回し、「無事に着いたよ!」と褒めてもらうために大きな顔を擦り寄せてきた。
「おお! こんなところに都合のいいデカい魔物が!」
ヘンドリックの目が、パァッと輝いた。
記憶がないため、彼にはこれが自分の使役するワームだという確証はない。だが、この状況を脱出するための「都合のいい乗り物」が向こうからやってきたという事実は、逃亡者にとって神の助けに等しかった。
「せっかくだ、俺を乗せてどっか遠くまで連れてってくれ!」
ヘンドリックは躊躇うことなく、ワームの巨大な頭の上へと飛び乗った。
主から直接「乗せてくれ」と頼まれたワームは、「キュウゥゥッ!」と歓喜の鳴き声を上げ、やる気満々で姿勢を低くする。
さらに、闇の精霊も、主の逃亡を止めるどころか、当たり前のような顔をしてスッとヘンドリックの隣に飛び乗った。
「えっ……? だ、旦那様……?」
壁に縛られたままのエリーゼが、信じられないものを見るような目で瞬きをした。
「……あー、ごめん美人さんたち! なんかこのままだと絶対面倒ごとになる予感しかしないから、後のことは任せるよ!」
ワームの上から、ヘンドリックがひらひらと無責任に手を振る。
「は、はぁ!? 任せるって、我々はこのまま放置ですか!?」
サンネが目をひん剥いて叫ぶ。
「大丈夫大丈夫! 魔力を通さなければ、時間が経てばその土の拘束は自然にボロボロ崩れて解けるからさ! たぶん半日くらいで! それじゃ!」
「は、半日!? ちょっと待て貴様! 逃げる気か!?」
「ボ、ボスぅぅぅっ!? アタシたちを置いていくななんだゾぉぉぉっ!!」
魔王の怒号とミラの悲痛な叫びを背に受けながら、ヘンドリックはワームの背をポンポンと叩いた。
「よし、行け!」
「キュウゥゥゥッ!!」
ワームは嬉々として地中へと頭を突っ込み、爆速で穴を掘り進んでいく。
ズゴゴゴゴゴ……という重低音と共に、ヘンドリックと闇の精霊を乗せたワームは、あっという間に地中深くへと潜り、荒野の彼方へと消え去ってしまった。
『ふぅ……危ないところだった。ここは絶対に逃げの一手だ。俺の平穏なスローライフは、あの女たちから逃げ切った先にしかない』
記憶喪失の便利屋は、真っ暗な地中を爆走するワームの上で、ようやく手にした(と思っている)自由を満喫するように、清々しい笑顔を浮かべていた。
◇ ◇ ◇
――一方、取り残された荒野の地下シェルター跡地。
「…………行かれて、しまいましたわね」
土壁に拘束されたまま、エリーゼが呆然と呟いた。
「見事にずらかられたな……。しかも、我々が乗ってきたタクシー(ワーム)を奪って……」
魔王マジカが、呆れ果てたようにため息をつく。
普通であれば、自分たちを縛り上げた挙句に放置して逃げた男に対し、激しい怒りが湧き上がる場面である。
だが、彼女たちは、ヘンドリックへの愛と情念を極限まで拗らせたヒロインたちであった。
「……ああっ、なんという御方……っ! 記憶を失ってもなお、私たちを危険に巻き込まないために、あえて冷たく突き放し、一人で孤独な旅路へと向かわれるだなんて……!」
サンネが、またしても壮大な勘違いを炸裂させて感涙にむせぶ。
「わらわたちを縛り上げる時の、あの冷酷な目……そして去り際の軽薄な笑顔……ぞくぞくするのじゃ……! 記憶を失った殿方も、最高に魅力的なのじゃ……っ!」
ルミナリアが、土の帯に締め付けられながら、完全に新しい扉を開いたような恍惚の笑みを浮かべる。
「……ええ。おっしゃる通りですわ、ルミナリア殿下。……絶対に、絶対に逃がしませんわ。地の果てまでも追いかけて、次こそは必ず私たちの愛いを分からせてさしあげますわ……!」
エリーゼの瞳に、逃げた獲物を追う極北の絶対零度のような、凍てつく執念の光が宿る。
ヘンドリックの「面倒くさいから逃げる」という自己中心的な逃亡劇は、結果として、ヒロインたちの愛と追跡の炎にガソリンを注ぎ込むという、最悪の逆効果を生み出してしまったのだった。
記憶なき便利屋と、激重ヒロインたちの地獄の鬼ごっこが、今、ここに開幕した。




