第250話:看病と狂王、そして一人だけの追放劇
「おのれぇぇ! 一体どこの大馬鹿者が、このようなおぞましい生物兵器を仕掛けたのじゃ! 首謀者は死刑じゃあああっ!」
黒い絨毯(数百万のG)に埋め尽くされた公爵邸。
豪華なテーブルの上に逃げ登った国王が、涙目になりながら激怒の咆哮を上げている。
だが、迷宮から帰還したヒロインたちにとって、そんなことはどうでもよかった。
「陛下、お退きください! 旦那様が、熱を出しておられるのです!」
「父上、やかましいわ! 殿方を休ませるのが先じゃ!」
ヒロインたちは国王の叫びを完全にスルーし、気絶して身動き一つしないヘンドリックを、邸宅で一番フカフカな最高級のベッドへと丁寧に寝かせた。
「ああ、旦那様……。ご自身の魂を削ってまで、私たちを……っ」
エリーゼが、涙ぐみながらヘンドリックの額に冷たいタオルを乗せる。
「閣下……。このサンネ、貴方が目覚めるまで、一睡もせずに護衛いたします」
サンネがベッドの傍らに跪き、忠誠を誓う。
その時、ルミナリアが懐から小さなペンダントを取り出した。
王家に代々伝わる国宝【万象還元の聖具】。以前、迷宮でヘンドリックの三下の人格を除去しようとした、あのペンダントだ。
「……あの聖具を」とエリーゼが息を呑む。
「かつて一度使ったことがある。あの時は効いた。……しかし、同じ魂に二度目が効くかどうかは、わらわにも分からぬ。じゃが、やらぬよりはましじゃ」
ルミナリアがヘンドリックの額に聖具を押し当てる。
淡い光が放たれる。
しかし——ヘンドリックは眠ったままだ。三下の顔のまま、スースーと寝息を立てている。
効いたのか。効いていないのか。外からは判断できなかった。
エリーゼが静かに見守る。サンネが息を呑む。ミラが「ボス……」と小さく呟く。
ルミナリアが聖具をそっとしまった。
「……あとは、待つしかないのじゃ」
その間にも、有能な従業員(G)たちは、屋敷の各所で粛々と仕事を続けていた。彼らが向かうのは汚れた場所、生ゴミのある場所、清掃の手が届いていない隅々だ。メイド長が完璧に管理しているヘンドリックのベッド周辺には、一匹も近づいてこない。
「おい、アレン! この蟲どもは一体何なんじゃ! なぜお前たちは平然としておるのだ!」
国王が、羊皮紙に猛烈な勢いで記録を書き殴っているアレンの胸ぐらを掴んだ。
「おや、陛下。ご存知ないのですか? この素晴らしい蟲たちは、すべて閣下が使役しておられる、超優秀な専属メイド部隊ですよ。いやはや、迷宮からご自宅へ事前転送されるとは、まさに神算鬼謀……」
「なっ……なん、じゃと……?」
アレンの悪気のない(むしろ自慢げな)言葉に、国王の動きがピタリと止まった。
「この男が……この蟲の、主……?」
ブツブツと呟く国王の様子が、急激におかしくなっていく。
恐怖と怒りで震えていたはずの彼の瞳孔が不自然に開き、その目の奥に、どろりとした『漆黒の瘴気』が渦を巻き始めたのだ。
それは、迷宮の最深部で仮面の集団が撒き散らしていた、あの精神を汚染する黒い霧とまったく同じものだった。
「……排除、せねば。……この男は、王国の……我らの『計画』の邪魔じゃ」
うわ言のように呟く国王の声は、もはや本来の威厳ある王のものではなかった。
だが、ヒロインたちは「愛する旦那様」の看病に付きっきりで、背後で起きている国王の異常な変化(精神汚染)にミクロン単位も気がついていなかった。
「……王家の権限において、大逆罪を適用する」
国王は懐から、王族のみが使用を許された国宝級の魔道具——【強制転移の宝玉】を取り出した。対象を問答無用でランダムな座標へ弾き飛ばす、極秘の追放アイテム。
「……消え失せよ、目障りな異物め」
国王が宝玉を砕こうとした、その瞬間。
ベッドの上のヘンドリックの目が、かっと見開いた。
聖具の効果か、それとも本能か——眠っていた意識が一瞬だけ浮上したのだ。
動けない。声も出ない。ただ目だけが動く。
エリーゼと目が合った。
サンネと目が合った。
ミラと目が合った。
何も言えない。何も動かせない。
ただ目だけで見た。
その一瞬の間に、ヘンドリックの意識の奥で、何かがぼんやりと灯った。
『……公爵位剥奪。国外追放……』
声は出ない。体は動かない。
『……陛下は……神ですか。ありがとうございます。スローライフ、満喫してまいります』
その時、国王が宝玉を高く掲げた。
赤い光が部屋を照らした瞬間、ヘンドリックの傍らにいた全員の視線が、一斉に国王へと向いた。
何かが起きる。そう感じた時には——
国王が宝玉を砕いた瞬間、ヘンドリックの身体が強烈な赤い光に包み込まれた。
「え……?」
「な、なんじゃ!? 殿方っ!?」
エリーゼたちが振り返った時には、もう遅かった。
看病されていたはずのヘンドリックの身体は、赤い光と共に空中にフワリと浮き上がり——。
シュバァァァァンッ!!
「……へ?」
次の瞬間、彼はベッドの上から文字通り「ポイッ」と跡形もなく消え去っていた。
「だ、旦那様ぁぁぁぁぁぁっ!?」
「閣下が!? ば、馬鹿な、どこへ消えた!?」
突然の事態に、ヒロインたちがパニックに陥り、絶叫する。
主を失った数百万のGたちも、動揺したようにワサワサと屋敷中を駆け回り始めた。
「……ふぅ。これで、王都は安泰じゃ」
そのカオスの中心で、国王だけが安堵の吐息を漏らしていた。
彼の目からはすでに黒い瘴気は消え失せ、本人は「不快な蟲の主を追放してやった」という程度の認識しか残っていない。
地下の最深部から、ようやく愛する男を連れ帰ったと思った矢先の、理不尽すぎる強制追放。
王都の権力中枢にまで『魔の手』が伸びていることなど知る由もないヒロインたちは、空っぽになったベッドを前に、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
「……エリーゼ。あの目……見ましたか」
サンネが震える声で言った。
「……見ましたわ」
エリーゼが静かに答えた。目を閉じて、一度だけ深く息を吐く。
「……あの目は、私たちを見ていましたわ。最後まで」
ミラが膝をついて泣いている。ルミナリアが扇子を握りしめたまま動けない。
完全なるすれ違い。
追放の宝玉を受け入れた瞬間のあの目が、乙女たちの目には「全てを引き受ける覚悟の眼差し」として映っていた。
――一方、その頃。
国宝の力によって空の彼方へ「ポイ」されたヘンドリックは。
『……スローライフ……やっと……自由……』
反動で一週間動けない体のまま、弾道ミサイルのように大空を飛びながら、その顔には満面の笑みが浮かんでいた。
解放された。全てのしがらみから、全ての肩書きから。
聖具の効果がどこまで及んだのかは、神のみぞ知るところである。
ただ一つ確かなのは——この瞬間、彼は生まれて初めてくらい、幸せそうな顔をしていた。




