第244話:最果ての残照、汚れし魂の再臨
数百万のGたちが去り、ワームの掘り進める音が遠ざかる。
迷宮の最深部に、ようやく本来の静寂が戻った――はずだった。
「……? なんだか、空気が重いんだゾ。耳の奥がツンとするような……」
最初に反応したのは、野生の勘を持つミラだった。
続いて、倒れそうになっていたエリーゼが、ハッと顔を上げ、世界樹の根の先にある「闇」を見つめる。
「旦那様、いけませんわ……! マナが、澱んでいます。何かが、この神聖な空間を塗り潰そうとしていますわ!」
俺も、自身の【索敵Lv1】が今まで経験したことのない奇妙な反応を返していることに気づいた。敵意はない。だが、そこに「いないはずのもの」が確かに積み重なっていくような、不快なノイズ。
「……誰だ。そこにいるのは」
俺の言葉と同時に、世界樹の根が作る巨大な影から、ゆらりと「それ」が現れた。
異様な意匠の仮面を被った集団。
彼らは一切の言葉を発することなく、手にした袋から黒い粉末を周囲に撒き散らした。
刹那、どろりとした漆黒の瘴気が空間を支配した。
「……っ!? な、なんじゃ、この息苦しさは……身体が動かぬ!」
国宝の使用で疲弊していたルミナリアが真っ先に膝をつき、続いてサンネ、ミラまでもが、肺を焼くような瘴気に抗えずその場に倒れ伏していく。
「師匠! ここは俺たちが……ぐっ、ロッテ、離れるな!」
「わかって、ます……師匠に、指一本、触れさせ……っ!」
弟子のブラムが剣を振るい、ロッテが必死に浄化の魔法で瘴気を押し返そうとするが、仮面の集団は止まらない。彼らが放つ瘴気は、レベル10を誇るはずのブラムたちの動きさえも、泥の中に沈めるように鈍らせていく。
『……あー。これ、ダメなやつだね。あいつら、俺たちのステータスじゃなくて、この場の「因果」そのものを腐らせに来てる。このままじゃ、全員ここで終わっちゃうんだよね』
俺は、震える手で膝をつくブラムの背中と、意識を失いかけているエリーゼたちの顔を一人ずつ見つめた。
今この瞬間、俺が「まともな」うちにできることは、たった一つしかない。
「……ごめんね。あとは、よろしく。……美味しいものでも、食べて待っててよ」
俺はポーチから、歪な紋章の刻まれた魔道具を取り出した。
まともな意識、まともな判断。そのすべてを懸けて、俺は自分の意思で、魔道具のスイッチを深く押し込んだ。
直後、脳髄が裏返るような激痛が俺を襲った。
エリーゼと微笑み合った記憶。サンネと背中を預け合った信頼。ミラの屈託のない笑い声。
俺の大切な、温かな「ヘンドリック」としての記憶が、強制脱出の魔力源として凄まじい勢いで燃やされ、消滅していく。
代わりに脳内に溢れ出してきたのは、ドロドロとした卑屈で下劣な、三下の記憶の残滓。
「……ぁ、あ……ぁあぁあ……っ!」
俺の瞳から光が消え、濁った汚れが宿る。
それと同時に、魔道具から放たれた白銀の光が、ブラムやロッテ、そして横たわる女性陣を力強く包み込んだ。
「し、師匠……!? その目は、まさか、また……! やめろ、おっさんーーーッ!」
ブラムの絶叫を最後に、光が爆発する。せっかく師匠って言っていたのに、最後おっさんとか台無しだ。
空間を跳躍し、彼らはこの絶望の迷宮から、迷宮入り口付近へと強制的に射出されていった。
瘴気が渦巻く、暗い最深部。
仮面の集団が見下ろす中心で、一人の男がゆっくりと立ち上がった。
「……あーあ。せっかくの上玉どもを逃しちまったぜ。チッ、俺としたことが、景気よく景品を投げ捨てちまうなんてよお」
ヘンドリックは、汚らしく鼻を啜り、下卑た笑みを浮かべた。
今の彼にとって、先ほど救った者たちは「自分を置いて逃げたムカつく獲物」でしかない。
「……おっと、なんだ? てめえら。その不気味な面、剥ぎ取って売れば酒代くらいにはなるか? ヒャッハー! 運が向いてきやがったぜ!」
彼は唾を吐き捨てると、剥ぎ取り用のナイフを無造作に抜き放った。
記憶を代償に、仲間を救い、自分を殺した。
残されたのは、ただ己の欲望だけで動く、最低最悪の三下の人格――その本能だけだった。




