第226話:里からの奇跡と、銀髪の王女
魔王と獣王の地形を変えるような大乱闘が、ルミナリア王女の「夕食抜きにするぞ」という冷酷な一言で強制終了された日の午後。
俺のこうしゃく邸(俺は未だに侯爵邸だと思っている)に、数人の珍しい客人たちが到着した。
「閣下。黎明の森より、エルフの使者と名乗る方々が面会を求めております」
家令のアルフォンスが、静かな足取りでリビングへとやってきた。
エルフの使者。その言葉を聞いた瞬間、隣で紅茶を飲んでいたエリーゼの肩が、微かに、しかし確かに震えた。
「……通してあげて。エリーゼの、同郷の人たちかもしれないからね」
俺が頷くと、アルフォンスは一礼して下がり、やがて深い緑の外套を纏った数人のエルフたちをリビングへと案内してきた。
先頭を歩くのは、長い白髭を蓄え、深い皺の刻まれた老エルフだった。
彼はリビングに入るなり、窓の外にそびえ立つ巨大な世界樹を見上げ、その場に膝をついてボロボロと涙を流し始めた。
「おお……おおっ。なんという清浄な魔力。間違いない、我らが魂の故郷、世界樹の息吹じゃ……!」
老エルフは地べたに額を擦り付けるようにして咽び泣いた。後ろに控える若いエルフたちも、皆一様に感涙に咽んでいる。
「……エルディス様……?」
エリーゼが震える声で老エルフの名を呼んだ。
その声に弾かれたように顔を上げた老エルフ――エルディスは、信じられないものを見るように目を大きく見開いた。
「エ、エリーゼ殿……!? おお、ご無事であられたか! 何年もの間、音信不通であったゆえ、てっきり……っ」
「……ええ。長きにわたり、ご心配をおかけいたしましたわ。わたくしは、この通り無事ですの。エルディス様も、お元気そうで何よりですわ」
エリーゼは静かに歩み寄り、エルディスの手を取って優しく立たせた。
エルディスはあの日、枯れゆく世界樹から『最後の枝』を折り、エリーゼに託して逃がしてくれた大恩人であり、彼女の魔法の師でもある。
「いいえ、エリーゼ殿……いいえ、エリーゼ王女。たとえ祖国が崩壊し、同胞が散り散りになろうとも、貴女様は我らエルフにとって唯一無二の希望、気高き王族の血を引くお方。その忠義、終生変わることはございませぬ」
エルディスの言葉に、俺は思わず持っていたお茶のカップを落としそうになった。
『……王女。いや、高貴な生まれだとは思っていたけれど、本当にエルフの国の王女様だったんだね。そんなすごい人が、便利屋の俺に毎日ご飯を作ってくれたり、添い寝してくれたりしているのかと思うと、急に恐れ多くなってきたんだけどね』
俺が冷や汗を流していると、エルディスが今度は俺を真っ直ぐに見つめ、その表情を驚愕と深い敬意に満ちたものへと変えた。
「……ヘンドリック殿。貴方様に、まずは最上級の感謝を伝えねばなりませぬ。我らはこの数ヶ月、ずっと貴方様を探しておりましたのじゃ」
「え……。俺を、ですか」
「はい。実は数ヶ月前……黎明の森の最深部、あの日完全に枯れ果て、死を待つのみであった我らが里の世界樹が、突如として奇跡の復活を遂げ始めたのですじゃ」
エルディスの告白に、エリーゼが「……っ!?」と息を呑んだ。
「何の前触れもなく、天より清浄なる魔力の奔流が降り注ぎ……枯れた幹が瑞々しさを取り戻し始めた。我ら一同、何が起きたのかと驚愕いたしましたが、満ちていくその魔力の質を辿り、ようやくここに辿り着いたのです。……ここの世界樹、そして里を救った魔力、それは間違いなく、ヘンドリック殿、貴方様のものでしたわ」
エルディスは再び床に額を擦り付けた。
だが、俺は首を傾げるしかなかった。俺は黎明の森の最深部なんて行ったこともない。
「……旦那様。そういうことだったのですわね」
ふと、隣にいたエリーゼが、すべてを理解したように震える声で呟いた。
「数ヶ月前。旦那様は、わたくしが持っていた『形見の枝』に、大量の魔力を注ぎ込んでくださいましたわね」
「……うん。でもあの時は、いくら魔力を込めても何の変化もなかったから、不思議に思っていたんだけどね」
「ええ。その後、旦那様が王都の迷宮から持ち帰った枝に魔力を込めたら、あちらはすぐに魔力を吸い取って根付き、この新たな世界樹になりましたわ。……それは、あちらの枝が『根に近い部分』だったからですの。最近も、枯れた枝に魔力を込めても、たまりもしないと不思議でしたわよね?どこへ魔力がいったのか、と」
エリーゼは、信じられない奇跡を目の当たりにしたように両手で口元を覆った。
「わたくしが里から持ち出したのは、地上で枯れた上部の枝。……あの枝は、魔力をその場に蓄積するのではなく、里にある世界樹の『本体』へと直接魔力を送る、アンテナのような魂のパスとして機能していたのですわ。……エルフであるわたくしたちですら、気づかなかった真実ですの」
『……なるほどね。あの時消えたと思った魔力は、エリーゼの持っていた枝を経由して、遠く離れた里の世界樹に直接流れていたんだね。俺がリモートで充電器代わりになっていたようなものかな』
エリーゼの解説を聞き、エルディスたちエルフ一行はさらに激しく咽び泣き始めた。
エルフたちは知らないが、俺が今朝あの枝に注いだすっからかん寸前の魔力も、今頃里の世界樹に莫大なエネルギーとして届いているはずだ。
「……旦那様」
エリーゼが、潤んだ瞳で俺を見つめてきた。
その表情は、王女としての凛としたものではなく、ただ故郷を救ってもらった一人の女性としての、限りない愛しさに満ちたものだった。
「……わたくしがどれほど願っても叶わなかった奇跡を……貴方は、数ヶ月前のあの何気ない優しさと、今朝の魔力だけで成し遂げてしまいましたのね。……もう、わたくしの心も魂も、貴方以外には何も必要ありませんわ」
エリーゼが俺の腕に強く抱きついてくる。その熱は、これまでのものよりもさらに重く、そして深く俺の肌に染み込んできた。
『……エルフの王女に、一族を救った救世主扱い。……俺の望んでいたスローライフが、音を立てて崩れ去り、代わりに国家規模の巨大な何かが押し寄せてきている気がするんだけどね。……腰だけじゃなく、胃の方も本格的に悲鳴を上げ始めたんだけどね』
俺は、故郷の復活を喜ぶエルフたちの歓声を聞きながら、これから訪れるであろうさらなる激動の予感に、静かに遠い目をするのだった。




