第220話:三百九十年の孤独と、最後のピース
その日は、朝から空気が澄み切っていた。
ハイエルフの王族、エリーゼが三百九十歳の誕生日を迎える、特別な一日。
新居の静かな自室で、俺はベッドの端に腰掛ける彼女と向き合っていた。
「……さて。エリーゼ、まずはスキルの取得をしておこうか。これまでの温存分と合わせて、今二ポイントあるはずだけどね」
「ええ。何を取ろうか、ずっと迷っておりましたの。……わたくし、決めましたわ」
エリーゼはステータス画面をイメージしながら、静かに目を閉じた。
「『土魔法Lv1』と、『浄化Lv1』を取得いたしますわ」
「……えっ? エリーゼは水と氷、精霊魔法の使い手じゃないか。それに結界術まであるのに、どうして今さら土魔法を?」
「……ふふ。旦那様がいつも使っておられる魔法ですもの。わたくしも、少しだけ真似事をしてみたいと思いましたの」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。俺の得意な土魔法と、生活を支える浄化。それはまるで、これから俺と一緒に「便利屋」としての生業を、隣で支えていくと言っているようだった。
『……本当に、愛が重いというか、いじらしいというか。ハイエルフの王族が土いじりなんて、普通は考えられないんだけどね』
◇ ◇ ◇
昼下がり。俺たちは手を繋ぎ、王都に根付いた世界樹の周囲を、ただゆっくりと周回していた。
巨大な木陰に入り、人目が完全に遮られた場所で、エリーゼが不意に足を止めた。
彼女は懐から、大切そうに一本の木の枝を取り出した。俺の純粋な魔力を吸い、かすかに青々とした生命の兆しを取り戻している、あの枝だ。
「……あの日。里の世界樹が枯れ始めた時、わたくしは泣く泣く、その枝の一つに触れましたわ」
エリーゼの翡翠色の瞳が、遠い過去の絶望を映し出すように細められた。
「神聖なる世界樹の枝は、本来、何者の力をもってしても折れることなどないはずでした。……しかし、わたくしが触れた瞬間、その枝はあっけなく、手の中に残ってしまったのですわ。……あの時の、エルフたちの絶望に満ちた叫びを、わたくしは今でも夢に見ますの」
彼女の白い指先が、微かに震えていた。
世界樹を失い、たった一本の枝を胸に抱いて、彼女は果てしない放浪の旅に出たのだ。
「……長い旅でしたわ。いくつものパーティーに加入しては、人間の醜い欲望や愚かさに絶望し、別れを繰り返してきました。そして一年前、ヘラフテンの街で、サンネとミラに出会ったのですわ」
エリーゼは、枝を見つめたまま静かに語り続ける。
「世間から見れば、わたくしたちはただの『半端者の寄せ集め』でした。実力はあるのにパーティーに馴染めない、孤立した女たち。……でも、本当は違ったのです。わたくしたちは最強の布陣になれるポテンシャルを持ちながら、その力を正しく導き、後方からすべてを支えてくれる『最後のピース』を探していただけなのですわ」
エリーゼが顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめた。
「……その最後のピースこそが、旦那様ですわ。貴方という奇跡に出会うために、わたくしは三百九十年を歩いてきたのです」
彼女は、両手でその枝を俺に差し出した。
「……旦那様。これを、貴方に託しますわ。もう、必要ありませんの。わたくしには今、この目の前に……旦那様という、新しい世界の中心がありますもの」
三百九十年の重みが、彼女の指先を震わせている。
その震えは、俺というただの人間を心底から信用し、自分の魂そのものを明け渡そうとする、彼女の究極の覚悟の表れだった。
「……エリーゼ。これは、君の三百九十年の心の拠り所だったはずだよね。本当に、俺が預かっていいのかな」
俺が静かに問いかけると、彼女は確かな意志を持って頷いた。
俺は枝を受け取ると同時に、彼女の白い頬にそっと手を添え、その震える唇に優しくキスを落とした。
触れ合った瞬間、エリーゼの目から、大粒の涙がポロポロと溢れ出した。
◇ ◇ ◇
そこから先は、俺の知っている氷の美女のエリーゼはいなかった。
「……旦那様っ……ヘンドリック様……っ」
彼女は俺の首に腕を回し、顔を俺の胸にぐりぐりと押し付けながら、甘えた声で泣きじゃくった。
エリーゼの美貌は、一見すれば氷のように冷徹で、無表情に見える。一見さんには、彼女が今どんな感情を抱いているかなど、絶対に見抜けないだろう。
だが、俺にはわかる。
ほんのりと薄紅に上気した頬。涙に濡れながらも熱を帯びて輝く翡翠の瞳。俺の服を握りしめる指先の震え。
それは、他人に決して見せない「誤差レベル」の、しかし確実に俺だけに向けられた狂おしいほどの愛と甘えのサインだった。
『……破壊力が、桁違いなんだけどね。この微細な変化に気づけるのは、世界で俺だけなんだって思うと、男としての自尊心が満たされてしまうんだけどね』
俺は彼女の細い背中を撫でながら、これまでの人生で一度も口にしたことのない、甘くて重い本音をこぼした。
「……他の女性たちと比べるわけじゃないんだけどね。でも、君にだけは言えるよ。……君が、俺の中で一番なんだよね」
俺の言葉を聞いたエリーゼは、俺の胸から顔を上げ、その誤差レベルの微笑みを、今度こそ誰が見てもわかるほどの満面の笑みへと変えた。
「馬鹿ね。……そんなこと、最初から知っているわ」
彼女のその言葉と共に、俺たちは世界樹の木陰から、誰も立ち入ることのない、甘く深い桃色の空間へと落ちていった。
◇ ◇ ◇
夜。俺とエリーゼは、二人きりの温泉に浸かっていた。
世界樹の魔力が溶け込む湯船の中で、彼女は俺の背中にぴったりと張り付き、離れようとしない。
「……わたくし、男という生き物が大嫌いですの。三百九十年、醜い欲望ばかりを見てきましたから。……今でも、それは変わりませんわ」
エリーゼが、俺の肩口にすりすりと頬を擦り寄せながら静かに語り始めた。
「屋敷にいるシリルやアルフォンス、ルーク……彼らは仲間として認めておりますけれど、必要最低限の言葉を交わすだけで十分ですの。わたくしが触れたいと思うのは、この世界で旦那様ただ一人だけ」
「……俺も、ただのおっさんなんだけどね」
「貴方だけが、特別なのですわ。……でも、わたくしはエルフです。旦那様が寿命を迎えられても、わたくしは一人で生き続けなければならない……」
彼女の細い腕に、ぎゅっと力がこもる。
「だから……わたくしにとって、旦那様が最初で最後の、ただ一人の男なのですわ。……どうか、わたくしのすべてを、余すことなく奪ってくださいませ」
その悲壮なまでの愛の告白に、俺はもう言葉を返すことができなかった。
ただ、彼女の長い寿命の先まで俺の熱が焼き付くように、激しく、そして狂おしいほど優しく、この「一番の女」を抱きしめ続けた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
窓から差し込む光の中で、俺は身動き一つ取れずにいた。
エリーゼが、俺の体に手足を絡みつかせ、万力のような力で抱き着いたまま固まっているからだ。
『……まさか、一睡もしてくれないとは思わなかったんだけどね。三百九十年のタメが爆発したハイエルフの体力、恐ろしすぎるんだけどね』
シーツ越しに伝わってくる彼女の熱は、燃え盛る火魔法よりも熱く、俺の心を完全に焼き尽くしていた。
俺は痛む腰を庇うことも諦め、俺の胸に顔を埋めて幸せそうに微笑む彼女の銀髪に、静かに口付けを落とすのだった。




