第218話:平穏な一ヶ月と、抜け落ちた記憶
サンネの誕生日から、あっという間に一ヶ月が経過した。
世界樹の魔力が王都周辺を安定させているのか、あれほど頻繁に起こっていた外敵や闇商人組織の動きは、不思議なほどピタリと止んでいた。
俺は新居の縁側に腰掛け、淹れたてのお茶を啜りながら、目の前で繰り広げられる騒がしくも平和な日常を眺めていた。
『おお! メイド長! 今日もいい天気なんじゃぞい! ベロォン!』
「……万死に値します」
王都で召喚した土の精霊(ぞいの子)が、庭を掃除しているベルナデッタの背後に忍び寄り、そのメイド服の長いスカートを勢いよく捲り上げた。
直後、ベルナデッタは一切の表情を変えずに、音速で振り抜いたモップの柄で土の精霊の顔面を容赦なく粉砕した。
『この痴れ者が! わらわと同じ土の精霊でありながら、なんという破廉恥な真似を! 主の顔に泥を塗る気か!』
そこへ、俺が作った「エリーゼの顔にミラの体」を持つキメラの土の精霊(女)が飛んできて、顔面が崩れたぞいの子に激しい説教を始めている。
「……ベルナデッタさん。俺、もう限界っす。毎日毎日、床磨きと薪割りで……魔王の姐さん、助けてくれないし……」
「……文句があるなら、元の闇商人に戻りますか。それとも、あの白と黒の石をぶつけて、あなたの内臓を全部反転させましょうか」
「ひぃっ! や、やります! やらせていただきます!」
イリスが冷たく言い放つと、闇の商人の男は半泣きになりながら床磨きに戻っていった。完全にイリスの尻に敷かれている。
『……相変わらず、カオスな庭なんだけどね。でも、誰も怪我をしない平和な日々というのは、悪くないかな』
少し離れたところでは、イリスに付き添われて、元パーティーの女三人が出かける準備をしていた。
彼女たちは今、ギルドから斡旋される薬草採取やドブさらいといった、地味で報酬の低い依頼を黙々とこなしている。
聞くところによると、彼女たちはそうして得たなけなしの金で、俺を追放した後に命を落とした、かつての仲間の墓参りを欠かさず行っているらしい。
「……私たちが愚かだったのよね。彼を止めず、増長させてしまったのは、私たちなんだから」
「……うん。一からやり直そう。ヘンドリックさんに、これ以上迷惑をかけないためにも」
彼女たちの背中は、以前の傲慢だった頃とは比べ物にならないほど、地に足が着いていた。
◇ ◇ ◇
身内たちも、それぞれにこの平穏を満喫しているようだった。
ブラムとロッテの二人は、ギルドの依頼をこなしつつ、相変わらず休みの日は仲良く王都へのデートに出かけている。弟子たちが青春を謳歌しているのを見るのは、師匠としても嬉しいものだ。
一方、ミラは相変わらず騒がしい。
「ボス! パパとママが、また王都の美味しいお肉を持ってきてくれたんだゾ!」
「ガッハッハ! ヘンドリック、元気にしておるか! 娘と孫の顔を見に来たぞ!」
「あなた、まだ孫はできていませんよ。……ヘンドリックさん、いつも娘が騒がしくてごめんなさいね」
獣王夫妻が毎日のように押しかけてきており、新居の庭では連日のようにバーベキュー大会が開催されていた。
そして、サンネ。
彼女もまた、ご両親から「跡継ぎはまだか」と毎日のように小言を言われていた。だが、今の彼女は以前のような堅苦しい気負いがなく、どこか吹っ切れたような、大人の女性の柔らかい笑みを浮かべるようになっていた。
「父上、母上。そのようなことは天の配剤です。私と閣下は、すでに心で結ばれておりますゆえ、焦る必要はございません」
サンネが余裕の笑みでそう躱すのを見て、俺は思わずむせてしまった。あの真面目だった騎士が、あんな風に両親をあしらえるようになるなんて、一ヶ月前のあの激しい夜が、彼女に確かな自信を与えたのだろう。
ルミナリア王女はといえば、城と新居を行き来しながら、なぜかエリーゼとよく密室で話し合いを行っていた。かつては火花を散らしていた二人だが、今ではすっかり正妻同盟のような妙な連携を見せている。
ちなみに、魔王は不在だ。
数日前に、「アタシ、やることができた。次会う時を期待しとけよ」と不敵な笑みを残し、またどこかへと旅立っていってしまった。相変わらず自由な奴である。
◇ ◇ ◇
「……ふう。本当に、平和だね」
俺は二杯目のお茶を注ぎながら、初夏の心地よい風に目を細めた。
大きな事件も起こらず、大切な人たちが笑っている。これこそが、俺がずっと求めていたスローライフの完成形なのかもしれない。
『……でも、この一ヶ月、本当に何事もなかったのかな』
ふと、俺の脳裏に微かな違和感がよぎった。
ミラが誕生日を迎えて、大騒ぎになった。
その一週間後に、サンネが誕生日を迎えて、また大騒ぎになった。
そして、そこから一ヶ月が経過している。
俺は、お茶を持ったまま固まった。
『……あれ。そういえば、エリーゼは「三人の中で最後」って言っていたよね』
エリーゼは三百九十歳のハイエルフだ。誕生日の概念が人間と違うのか、それとも別の季節なのか。
だが、あの日、世界樹の木陰で彼女は確かにこう言ったのだ。最後の大トリはわたくしですわよ。三百九十年分の期待を、どうか裏切らないでくださいませ、と。
『……待てよ。まさか、もう過ぎているなんてことはないよね。それとも、今日とか明日とか』
俺の背筋を、一ヶ月前の外敵との戦いよりも遥かに冷たい汗が流れ落ちた。
もし、彼女の誕生日を忘れてスルーしてしまっていたとしたら。この一ヶ月の平和は、ただ嵐の前の静けさであり、エリーゼが静かにその時に向けて恐ろしい策を練り上げている時間だったとしたら。
『……後なんか、忘れていないかな。というか、俺、致命的な地雷を踏み抜いている気がするんだけどね』
俺が青ざめていると、背後の障子が静かに開いた。
「……旦那様。お茶のお代わりは、いかがですの」
そこに立っていたのは、完璧な貴婦人の笑みを浮かべたエリーゼだった。
その笑顔がなぜか、恐ろしいほどに冷ややかに見えたのは、俺の気のせいだと思いたかった。




