第216話:黄昏の誓いと、裏側の密約
白亜の壁へと生まれ変わった新居と、夕日に照らされる世界樹を背にして、俺とエリーゼはゆっくりと屋敷への道を歩いていた。
初夏の風が、エリーゼの銀糸のような髪をふわりと揺らし、隣を歩く彼女から花の蜜のような甘い香りが漂ってくる。
俺は、隣で静かに微笑むハイエルフの横顔を盗み見た。
かつて便利屋としてヘラフテンで平穏に暮らそうとしていた頃の俺なら、今のこの状況は間違いなく「全力で逃げ出すべき事態」だったはずだ。
『……ずっと、自分には誰かを幸せにする資格なんてないと思っていたんだけどね。アイシャのことを傷つけたという過去を盾にして、俺は自分の心に鍵をかけていただけなのかもしれないね』
だが、ミラを抱き、彼女の幸せそうな笑顔を見た時、俺の中で何かが決定的に変わった。
王女が提示した「貴族としての義務」――それはかつての俺なら窮屈な枷でしかなかったが、今では大切な彼女たちの居場所と、これから産まれてくる子供たちの未来を守るための、確かな盾に思えていた。
「……旦那様? そんなにわたくしの顔を見つめて、どうかされましたの?」
エリーゼが不思議そうに小首を傾げ、翡翠色の瞳を覗き込ませてくる。
「……ねえ、エリーゼさん。一つ、聞いてもいいかな」
「あら、改まって。何かしら」
「……俺の、何がいいんだい? 俺はしがないおっさんだし、特別な才能があるわけでもない。レベル1しか持っていない、ただの便利屋なんだけどね」
ずっと聞きたかった問いだった。
三百九十年という長い時を生き、絶世の美貌と王族の品位を持つ彼女が、なぜ俺のような男にここまで執着し、愛を注いでくれるのか。
俺の問いを聞いた瞬間、エリーゼは足を止め、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
そして次の瞬間、彼女の白い頬が、夕焼けよりも鮮やかな朱色に染まっていく。
「……そ、それを今、ここで聞きますの? 旦那様は、本当に意地悪ですわね」
エリーゼは恥ずかしそうに視線を彷徨わせ、細い指先で自身の法衣の裾をいじった。
「……旦那様は、ご自身のことを何も分かっておられませんわ。わたくしたちが絶望の淵にいた時、その無力なレベル1を積み重ねて、誰よりも優しく、誰よりも確実にわたくしたちを救い出してくださったのは誰ですの?」
「それは……俺は当たり前のことをしただけなんだけどね」
「その『当たり前』が、この残酷な世界でどれほど尊いか……。旦那様は、強大な力を持っても決して傲らず、ただわたくしたちの幸せを一番に考えてくださいましたわ。……わたくし、三百九十年生きてきて、旦那様ほど『強くて優しい』お方に、お会いしたことはありませんのよ」
エリーゼはそう一気に語ると、潤んだ瞳で真っ直ぐに俺を見つめてきた。
そこには、策士としての余裕も、ハイエルフとしてのプライドもない。ただ一人の、恋する乙女の剥き出しの真心だけがあった。
「……旦那様の、その不器用な優しさも、時折見せる真剣な目も……わたくし、そのすべてが、愛おしくてたまりませんの」
彼女の素直な告白が、俺の胸の奥を熱く締め付ける。
これほどまでの愛を向けられて、なお「便利屋だから」と逃げることは、もう俺のプライドが許さなかった。
俺は無言のまま、エリーゼの細い肩を引き寄せ、その華奢な体を強く抱きしめた。
「き、きゃっ……!? だ、旦那様……」
「……ありがとう、エリーゼさん。……今の言葉への返事、これでいいかな」
俺は彼女の耳元で囁き、驚きに目を見開く彼女の唇に、静かに自分の唇を重ねた。
一瞬、エリーゼの体がビクリと震えたが、すぐに彼女の手が俺の背中に回り、壊れ物を扱うような優しさで俺を抱き返してくる。
世界樹の木陰、黄昏時の静寂の中で、俺たちは長く、深い接吻を交わした。
それは、便利屋ヘンドリックとしての逃避の終わりであり、侯爵ヘンドリックとして、彼女たちの愛と共に生きる決意の証明でもあった。
『……エリーゼさんの誕生日は、三人の中で最後だからね。その時まで、この想いを大切に温めておこうかな。三百九十年分の孤独を、俺が全部埋めてあげないといけないからね』
唇を離すと、エリーゼは今にも溶けてしまいそうなほど蕩けた表情で、俺の胸に顔を埋めた。
「……反則ですわ、旦那様。……これでは、わたくしの番まで、待ちきれなくなってしまいますわ……」
幸せそうに、そしてどこか恨めしそうに呟く彼女の頭を、俺は愛おしさを込めて優しく撫で続けるのだった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、新居の屋敷内にあるルミナリア王女の客間では、不穏な、それでいてどこか滑稽な会談が行われていた。
部屋の主であるルミナリアは、優雅に扇子を広げながら、目の前に座る「客」を冷徹な目で見定めている。
その客――魔王は、相変わらず露出の激しい、体にぴたりと張り付いたヨガウェアのような格好で、ソファにふんぞり返っていた。
「……さて、魔王よ。わらわの提案、どう受け取るのじゃ」
「がはは。面白いじゃねえか。要するに、アタシがヘンドリックの『番』になればいいんだな?」
魔王は、自身の豊満な胸部を強調するように腕を組み、不敵に笑った。
ルミナリアはその野性的な物言いに眉をひそめたが、すぐに言葉を繋ぐ。
「番……。魔族らしい直球な言い回しじゃな。わらわは王族ゆえ、表向きの正妻としての体面さえ守られれば、それでよい。周囲に対してわらわを敬い、王家の威光を損なわぬ行動を示してくれるのであれば、後のことは好きにするがよい」
「お、交渉成立だな。アタシもアイシャから『ヘンドリックを頼む』って言われてるしよ。あのおっさん、放っておくと勝手にどこかへ消えちまいそうだからな」
魔王は満足げに頷き、ルミナリアが差し出した白磁のティーカップを豪快に飲み干した。
「わらわも、彼をただの侯爵で終わらせるつもりはない。わらわの隣に立つに相応しい、この国の伝説とするのじゃ。そのためには、そなたのような強大な力も必要になる」
「がはは。分かったぜ。アタシが力で、お前が権力でおっさんを囲い込むってわけだ。……悪くねえ取引だぜ、王女様よ」
二人の間で、ヘンドリックの預かり知らぬところで恐ろしい密約が成立していく。
魔王は「約束だぜ」と立ち上がり、そのタイトなウェアに包まれた肢体を大きく伸ばした。
「さて、アタシもそろそろ準備しておくかな。ヘンドリックの番になるってのが、どんなもんか楽しみだぜ」
「……節度だけは忘れるでないぞ。あれは、わらわの旦那様なのじゃからな」
ルミナリアは釘を刺しながらも、どこか楽しげに扇子を口元に当てた。
◇ ◇ ◇
それから、さらに一週間の月日が流れた。
ミラの誕生日ラッシュの余韻が冷めやらぬまま、王都の新居は再び、緊張感と期待が入り混じった独特の空気に包まれていた。
ミラの誕生日からわずか一週間。今日という日は、黎明の森の前衛騎士――サンネの誕生日だった。
朝の光が差し込む広間では、サンネの父ベルンハルトと母メアリが、娘の晴れ姿を前にして感極まった表情で立っていた。
「……サンネ。身だしなみは整っていますね? 騎士としての品位を保ちつつ、女性としての魅力も忘れぬように」
「……はい。父上、母上。……全力を、尽くして参ります」
サンネは純白の、機能美に溢れた軽装鎧を纏い、黄金比と称される完璧な体躯を微かに震わせながら、悲壮なまでの覚悟で俺の前に立った。
その瞳には、一週間前のミラの、あの蕩けたような幸せな顔への強烈な対抗心と、お家再興を背負った重すぎる使命感が混ざり合っている。
『……一週間という間隔は、俺の腰と精神にとって短すぎるんだけどね。でも、彼女の覚悟に満ちた目を見ると、逃げ出すわけにもいかないかな。……今日という日も、間違いなく波乱の幕開けになりそうだよね』
俺は、ご両親に見守られながら震える手で剣の柄を握るサンネを見据え、静かに深呼吸をした。
こうして、騎士サンネにとっての、お家再興と乙女のプライドを懸けた「運命の一日」が幕を開けたのだった。




