第186話:四者四様、そして抜け駆け
侯爵邸への帰還の道中。
広場での激戦と事後処理を終えた俺たちは、夕暮れの王都を歩きながらようやく一息ついていた。
先頭を歩くイリスが、闇の商人や元パーティメンバーたちを完全に『連行』してくれているおかげで、俺の周りには少しだけ静かな空間ができていた。
「おい、ヘンドリック!」
突然、背後から岩でもぶつかってきたかのような重い衝撃が走った。振り返らなくても分かる。魔王だ。
「いいじゃねえか、減るもんでもねえし!」
彼女は豪快に笑いながら、俺の背中にがっしりと抱きついてきた。例のインキュバスの仮面の一件以来、妙にスキンシップのハードルがバグっている気がする。引き締まった健康的な体温が服越しに伝わってきて、嫌でも意識させられてしまう。
「……減るよ、俺の精神力が。お前、あっちのパーティ(イリスたち)の方なんだから、向こうの面倒を見ろよ」
俺はため息をつきながら、背中に回された魔王の逞しい腕をぺりぺりと剥がし、適当にあしらって前の方へと押し返した。
「なんだよ、いけずだな……。まあいいさ、また後でな!」
魔王は少しだけ唇を尖らせて不満そうに呟いた後、からからと笑いながら、前方を歩く連中の方へと小走りで駆けていった。
「ボス!」
魔王と入れ替わるように、今度は小さな影が勢いよく飛びついてきた。ミラだ。
「アタシも頑張ったんだゾ! いーっぱい敵を倒したんだゾ! だから、尻尾と耳、触って触ってー!」
ミラは俺の胸元に頭をぐりぐりと押し付けながら、自慢のふさふさの尻尾を左右に激しく振っている。その瞳は期待でキラキラと輝いており、完全に飼い主に褒められたい犬か猫の状態だった。
俺は苦笑しながら、彼女の柔らかな銀色の髪に手を伸ばし、ピンと立った獣耳の付け根を優しく撫でてやった。
「はふぅ……っ、ボスの手、あったかくて気持ちいいんだゾ……」
少し撫でただけで、ミラはあっという間にとろんとした表情になり、喉の奥でゴロゴロと甘い音を鳴らし始めた。以前もこんなことがあったなと思い出しつつ、俺はさらにふさふさの尻尾を優しく梳いてやり、ご褒美としてその柔らかい獣耳にチュッとそっとキスを落とした。
「にゃんっ!?」
ミラがビクッと肩を跳ねさせ、顔を真っ赤にして尻尾を垂直にピンと立てた。そして、恥ずかしさと嬉しさが入り混じったような顔で、俺の腕にすりすりと力強くしがみついてくるのだった。
「……あ、あの、ヘンドリック様」
次に遠慮がちに声をかけてきたのは、少し離れた場所でもじもじと身をよじっていたサンネだった。
「私も……その、かなり、頑張りました……っ! 前線で、たくさん剣を振るいました……っ」
普段は凛々しく隙のない女騎士である彼女が、今は顔を林檎のように真っ赤に染め、俺の袖をきゅっと掴みながら上目遣いで見上げてくる。
『うっ……なんだかんだで、その破壊力抜群の上目遣いは心臓に悪いからやめてくれ』
俺は内心で激しく動揺しながらも、必死に平静を装った。
「分かってるよ。サンネが一番前線を支えてくれたからな。怪我がなくて本当によかった」
俺は彼女の愛剣をそっと受け取ると、歩きながら魔法で軽く刃こぼれをメンテナンスし、新品同様の輝きを取り戻した剣を返した。
そして、彼女が剣を受け取ろうと両手を差し出した瞬間、その隙を突くように一歩踏み込み、彼女の綺麗なおでこにそっとキスをした。
「ひゃぅっ!? へ、ヘンドリック、さまっ……!?」
サンネは剣を抱きしめたまま、頭からシュンシュンと音を立てて湯気を噴出させ、完全に思考停止してフリーズしてしまった。その目はぐるぐると回っており、しばらくは使い物になりそうになかった。
そして最後は、ずっと俺の隣を静かに、けれど確かな存在感を放ちながら歩いていたエリーゼだ。
「旦那様。皆様、とても嬉しそうですわね。……旦那様からのご褒美、私も羨ましゅうございます」
エリーゼが、蠱惑的な微笑みを浮かべながら俺をじっと見つめてくる。
『……うーん、本当はパーティメンバーにこういう特別な扱いはしない主義なんだけどな』
だが、今回のスタンピードと襲撃事件で、一番気を張って俺を探してくれていたのは間違いなく彼女だ。そんな彼女には、これが一番の特効薬なんだろう。
「エリーゼも、本当にお疲れ様」
俺は足を止め、エリーゼの細くしなやかな腰に腕を回し、そっと抱き寄せた。彼女の体からは、ふわりと甘く高貴な香りが漂ってくる。
そのまま、彼女の艶やかな額にキスをしようと顔を近づけた、その瞬間だった。
エリーゼが、スッと顔の角度を絶妙に変えたのだ。
「……んっ」
額に落ちるはずだった俺の唇は、エリーゼの柔らかく、熱を帯びた唇によって完璧なタイミングで塞がれていた。
『……えっ!?』
驚愕で目を丸くする俺をよそに、エリーゼは少しだけつま先立ちになり、目を閉じたまま俺の背中に腕を回し、さらに深く唇を押し付けてきた。甘い吐息が交じり合い、脳が麻痺するような感覚に陥る。
数秒、あるいはもっと長く感じた時間の後、彼女はゆっくりと唇を離し、潤んだ瞳で俺を見つめた。
「ごちそうさまでした、旦那様。……これで、私の『抜け駆け』成功ですわね」
悪戯っぽく、しかしどこか独占欲を滲ませて微笑む聖女の顔を見て、俺は完全に言葉を失い、ただ顔を赤くすることしかできなかった。
いや、聖女はこんなことはしないか。
やはりエリーゼはエリーゼだな。
そうこうするうちに、夕日に照らされた侯爵邸の大きな門が見えてきたのだった。




