第175話:氷のサンドイッチと、黎明の森の初仕事
屋敷の廊下は、いまだに完璧なスケートリンクだった。
エリーゼの放った絶対零度の名残は、魔法で強化された建材の奥まで浸透し、並の加熱魔法ではビクともしない。
「……ボス、寒い、寒すぎるんだゾ……!」
右側から、ミラの暴力的な熱量としなやかな肢体がしがみついてくる。普段から布面積の少ない彼女にとって、この氷結地獄は文字通りの死活問題なのだろう。
そして左側からは、ツルリと派手な音を立てて滑ってきたサンネが、例のパージされた「中身」――つまり薄い肌着一枚の状態で、弾丸のような勢いで俺の脇腹に激突していた。
「か、閣下ぁ! 申し訳ありません、この床の摩擦係数が……ひゃんっ、冷たっ!?」
ミラの柔らかさと、サンネの引き締まった黄金比の肉体。
俺は左右から二人のヒロインに文字通り「サンド」され、そのあまりの密着度と感触に、理性が今にも消し飛びそうになっていた。
『……おい、これ何の修行だよ。エリーゼのジト目が氷の槍より痛いんだけど、離れたら二人が凍死しそうだし、どうすればいいんだ……』
俺が鼻の下を伸ばしそうになるのを必死で耐えていると、正面からメイド長のベルナデッタが、凍りついた床を何事もないかのようにスパイクでも履いているのかと思うほどの安定感で歩み寄ってきた。
その手には、緊急性を物語る数枚の羊皮紙が握られている。
「閣下、お取り込み中のところ恐縮ですが、至急ご確認いただきたい報告がございます」
「……ああ、このまま(サンドイッチ状態)で良ければ、聞こう」
俺の答えに、ベルナデッタは眉一つ動かさず、淡々と、しかし極めて重い内容を告げた。
「近頃、仮面を被った謎の存在に襲撃される冒険者が急増しております。問題なのは、それがかつて閣下たちが挑んでいたダンジョン内に限らず、王都近郊の街道や、一般の村々に近い森にまで広がっていることです」
その言葉に、俺の背筋にミラの震えとは別の戦慄が走った。
エリーゼも、赤面していた顔を瞬時に引き締め、冷徹な副リーダーの瞳に戻る。
「……ダンジョンの外へ漏れ出した、ということですわね。単なる魔物の暴走ではなく、明確な『意志』を持った組織的な狩り……」
「はい。襲撃された者の多くは、一定以上の実力を持つ冒険者に限られています。まるで、強い魔力やスキルを持つ個体を狙って、何かを『回収』しているかのような……」
ベルナデッタの報告は続く。
右からのミラの熱、左からのサンネの鼓動。そして正面から突きつけられる、世界の破滅を予感させるシリアスな情報。
カオスな日常のすぐ隣で、確実に仮面の影が俺たちを飲み込もうと迫っていた。
「――その件につきましては、追って調査隊を編成するとして。閣下、そして奥様。現在直面している物理的な問題について、ご報告とご請求がございます」
ベルナデッタの後ろから、音もなく現れたのは家令のアルフォンスだった。
彼は手にした分厚いバインダーを開きながら、クイッと中指で眼鏡のブリッジを押し上げた。そのレンズの奥の瞳は、絶対零度の氷よりも冷徹な光を放っている。
「まず、広間から別室、及び廊下にかけての完全凍結による建材の劣化。並びに、魔法的冷気による高価な調度品三十点の破損。さらに、屋敷の機能停止に伴う臨時修復費用……しめて、金貨五百枚といったところでしょうか」
「……ご、五百……っ!?」
その莫大な数字に、一番過剰な反応を示したのは俺ではなかった。
先ほどまで「明確な意志を持った組織的な狩りですわ」とクールに分析していたエリーゼが、ビクゥッと肩を震わせてアルフォンスを凝視している。
「お、お待ちになって、アルフォンス。それはいくらなんでも見積もりが……わ、わたくしが少し本気を出して溶かせば……」
「奥様。この氷は、奥様の極めて純度の高い魔力による『絶対零度』の結晶です。中途半端な熱を加えれば、急激な温度変化による熱膨張で屋敷の基礎構造ごと爆発四散いたしますが、よろしいですか?」
「うっ……」
理路整然と、かつ容赦なく事実を突きつけるアルフォンスの言葉に、エリーゼが言葉を詰まらせる。
普段はハイエルフの王族としての威厳と、正妻としての余裕を崩さないエリーゼ。出会ってからこれまで、彼女がここまで明確な『ミス』を犯し、完全に言い負かされている姿を見るのは初めてだった。
すっかりタジタジになったエリーゼは、視線を泳がせ、俺の顔をチラチラと見て『助けて旦那様』と涙目で訴えかけてきている。
『……いや、俺に助けを求められても!』
俺は心の中で激しくツッコミを入れた。
なにせ今の俺は、右からは寒さに震えるミラの暴力的な柔らかさが、左からは氷の床で滑ってきた薄着のサンネの黄金比がピタリと密着した、極上のサンドイッチ状態である。
物理的に身動きが取れない上に、ここで不用意な発言をすれば、借金でパニックになっているエリーゼの怒り(嫉妬)の矛先が、この密着状態に対して再び向きかねない。
助けたいが動けない。動きたいが動けば地獄。
俺が両手に華の状態で冷や汗を流していると、アルフォンスは恭しく一礼して追撃を放った。
「無論、この侯爵邸の財政であれば支払えない額ではありません。しかし、無駄な出費であることに変わりはなく……領地経営の観点から申し上げれば、甚だ遺憾であるとしか」
「……っ、うぅ……」
ついにエリーゼが、耳の先まで真っ赤にして俯いてしまった。完璧な副リーダーの、初めての完全敗北である。
『……仕方ない、ここはリーダーとして腹を括るか』
俺は両脇の柔らかい感触に必死に耐えながら、できるだけ威厳を取り繕って咳払いを一つした。
「……アルフォンス。その修復費用は、俺がダンジョンに潜って稼いでくるよ。ちょうど、その『仮面の怪人』の調査も兼ねて、ね。黎明の森の初陣には丁度いい」
「……承知いたしました、閣下。では、早急な出立と、金貨五百枚以上の成果を期待しております」
アルフォンスはパタンとバインダーを閉じ、メイド長のベルナデッタと共に静かに一礼して去っていった。
残されたのは、凍りついた広間と、気まずい沈黙である。
俺は右のミラと左のサンネに挟まれたまま、申し訳なさそうに俯いているエリーゼに向かって、極めて穏やかな声で語りかけた。
「……エリーゼ。この借金の件は、後でまたゆっくり話をしようか」
「……旦那様」
「気にしなくていいよ。君が誰よりも屋敷のこと、クランのことを考えてくれているのは、俺が一番よく分かっているからね。たまにはこういう失敗だってあるさ」
俺がそう言って微笑みかけると、エリーゼはパッと顔を上げ、大きな瞳にうっすらと涙を浮かべながらコクコクと頷いた。
「……はいっ。わたくし、次からは絶対に気をつけますわ……っ!」
普段の完璧なハイエルフの威厳はどこへやら、今の彼女は完全に『失敗して旦那に慰められている健気な妻』の顔になっていた。
『……いつから俺は、こういうフォロー役というか、慰める役割を担うことになったんだ?』
俺は内心で小さくぼやいた。
かつてのパーティーでは、裏方としてひたすら雑用をこなし、目立たないように生きてきたはずだった。それなのに、気づけば美女三人に囲まれ、クランのリーダーとして莫大な借金を背負い、正妻のメンタルケアまでしている。
「がはははっ! なんだこれ、よく滑る床だゾ! アタシの国にもこんな楽しいアトラクションはなかったぞ!」
ふと視線を向けると、広間の奥からものすごいスピードで何かが滑ってきた。
魔王である。
彼女は露出の多い服のまま、器用に氷の床をスケートのように滑り、楽しそうに爆笑しながら俺たちの目の前を通り過ぎていった。
『……いや、本当にカオスだな、俺たちのクラン』
凍りついた屋敷。両脇の暴力的な密着感。涙目の正妻。氷上スケートを満喫する魔王。そして、迫り来る仮面の怪人の脅威。
こうして俺たち『黎明の森』は、かつてないほどカオスで凍てつくような船出を迎えたのだった。




