第174話:限界突破のベロンと、黎明の森
部屋の空気が、完全に凍りついていた。
エリーゼから放たれる尋常ではない怒気と絶対零度の冷気に、ミラもサンネも、そして暴走していた土の精霊でさえも、本能的な恐怖で身動きが取れなくなっていた。
このままでは、屋敷ごと氷河期に突入してしまう。俺は意を決して立ち上がると、無言のままズカズカとエリーゼの元へ歩み寄った。
「……ちょっと、こっちへ来ようか」
俺は有無を言わさぬ強引さでエリーゼの腕を掴むと、広間の奥にある別室へと彼女を引きずっていくように連れ出した。
広間に残されたサンネとミラが戦々恐々としている気配を感じたが、今はそれどころではない。
バタン、と別室の扉を閉める。
「……旦那様? いったい何を……」
不満げに眉をひそめるエリーゼ。だが、俺は怒るどころか、小さくため息を吐いてから、彼女の華奢な体をそっと抱きしめた。
「……えっ?」
突然の抱擁に、エリーゼの体がビクッと震え、先ほどまでの絶対零度の冷気が嘘のようにスッと霧散していく。
「……いつもありがとう、エリーゼ。君が副リーダーとして、裏でこのカオスな連中をまとめてくれているおかげで、俺たちはなんとかやっていけてるんだ」
普段は波風を立てないようにしているが、彼女が誰よりもこのクランのために神経をすり減らしていることは分かっている。
俺が耳元でそう囁くと、エリーゼは少しだけ涙目を浮かべ、ポッと頬を染めた。
「……馬鹿ね。皆、貴方がわたくしに怒っていると誤解していますわよ?」
「いいんだよ、たまには俺が怒り役にならないとね」
甘い空気が流れる。俺たちの間には、完全に二人の世界たる桃色空間が広がっていた。
だが、その最高の雰囲気をぶち壊す最悪の気配が、地中から俺たちの足元へと忍び寄っていた。
「捲布開帳!!」
床板をすり抜け、土の精霊が勢いよく飛び出してきた。
そして、その両手が、エリーゼのゆったりとした服の裾をガバァッと上にめくり上げた。
エリーゼは室内でくつろぐため、腰紐を締めていなかった。結果として、土の精霊の「ベロン」は、彼女のスカートどころか、下着を包み込む胸元までを完全にフルオープンにしてしまった。
「見ちゃダメえ!」
その大惨事の瞬間、別室の扉の隙間から覗き見していたロッテが悲鳴を上げ、慌てて隣にいたブラムの目を両手で塞いだ。
「……俺、ロッテしか見てないさ」
目を塞がれたままブラムが天然の殺し文句を囁き、ロッテは限界まで顔を赤くしてフリーズする。地獄絵図の片隅で、若き桃色空間が爆誕していた。
だが、俺にそっちを気にしている余裕はなかった。目の前には、信じられない光景が広がっている。
『……つつましいと思っていたけれど、そこには確かな、そして完璧な自己主張をする美しい膨らみが……!』
風呂で見たことはあったが、この不意打ちのシチュエーションで突きつけられた破壊力は凄まじかった。ドクン、と心臓が跳ね上がり、俺の視界が真っ白に染まる。
「……あ、やりすぎたぞい」
めくった張本人である土の精霊が、冷や汗を流しながら呟いた。
「……っ!!」
振り返りざまに自分のすべてを俺に目撃されたエリーゼの顔が、一瞬で茹でダコのように真っ赤に染まる。
次の瞬間。
羞恥と怒りが限界を突破したエリーゼから、本気の「絶対零度」が放たれた。
ピシィィィィッ!!
別室から広間、そして屋敷全体へと瞬く間に分厚い氷柱が広がり、若き桃色空間もろともすべてをカチンコチンに凍らせていく。
俺は、あまりの眼福と急激な冷気によって完全に意識を刈り取られ、そのまま白目を剥いて昇天した。
◇ ◇ ◇
どれくらい気を失っていただろうか。
ジンジンと痛む首を押さえながら目を覚ますと、俺は凍りついた広間のソファに寝かされていた。
窓の外、屋敷の軒下では、土の精霊が逆さ吊りにされていた。
イリスが笑顔で指をクルクルと回すたびに、土の精霊は猛烈な勢いで大回転させられ、「目がぁぁぁ!」と情けない悲鳴を上げている。いくらなんでも限度を超えたセクハラへの、当然の処罰である。
俺の背後の影から、闇の精霊がスッと姿を現し、大人しい声で呟いた。
「……残念ですね。ですが、ヘンドリック様は眼福だったようで」
『……君、本当に的確に刺してくるよね』
俺が冷や汗を流していると、赤面を隠すように咳払いをしながら、エリーゼが歩み寄ってきた。
「……旦那様。お目覚めですか」
「あ、ああ……色々と、ごめん」
「……謝る必要はありませんわ。それより、クランの名前ですが……」
エリーゼは少しだけ視線を逸らし、もじもじとしながら言葉を紡いだ。
「泥だらけの森にも、光は射す……旦那様が仰っていた言葉、とても素敵だと思いましたわ。ですから……旦那様とわたくしで決めた『黎明の森』、という名前にするのはいかがでしょう?」
照れ隠しのように、しかし確かな独占欲を含んだデレである。
『……うん、名前はすごくいいし、エリーゼが可愛いから万事オッケーなんだけどね』
その時だった。
「……そろそろお仕事のお時間ですが」
広間の入り口から、メイド長が静かな、しかし有無を言わせぬ声で告げた。
「ギャハハハハッ! 見事な氷の城だな!」
その後ろでは、魔王が腹を抱えてゲラゲラと爆笑している。
「う、うまく歩けません……っ!」
サンネが完全に凍結してツルツル滑る床に苦戦し、生まれたての子鹿のように足を震わせている。
「ボス……寒いんだゾ……」
普段から薄着のミラが、ガチガチと歯を鳴らしながら俺に泣きついてきた。
美しいクラン名が決まった感動の余韻は、一瞬にしてカオスの彼方へと吹き飛んだ。
俺は痛む首を傾げながら、美しい氷の城と化した周囲を見渡し、大きくため息を吐いた。
「……なあ、屋敷が凍ったままなんだけど、これどうすんだよ」
こうして、俺たちのクラン『黎明の森』は、文字通り凍てつくような船出を迎えたのだった。




