第169話:出発の朝と、止まらない土の精霊と、王都に残る影
出発の朝。
イリスは夜明け前から動いていた。全員分の携行食を完璧に用意している。ダンジョンでも食べやすい形、保存が効く形、栄養も考えられている。
俺が起きてきて、その光景を目撃した。
「……これ、全員分?」
「はい、閣下。道中のお食事です」
「……いつ作ったのかな」
「昨夜から」
『……この人、寝てるのかな』
『聞かない方がいい気がするんだけどね』
魔王が起きてきて弁当のにおいを嗅ぐ。
「……なんだこれ」
「閣下のお連れ様の分もございます」
「……別に礼は言わないが、もらう」
闇の商人が泣きながら受け取る。
「……行軍中にこんなものが食べられるとは……」
◇ ◇ ◇
出発準備中。
土の精霊がうろついている。イリスが荷物を整えている。
土の精霊がイリスに近づく。
『……ふむ』
イリスは気づいていないように見えた。
ベローン。
全員が固まる。
イリスが振り返る。怒っていない。笑顔のままだった。
「……後でお仕置きですね」
土の精霊が調子に乗る。
『怒らないのか! では我輩の勝ちじゃぞい!』
静かに、白黒の石が一つ、イリスの指先から飛んだ。
土の精霊に当たった瞬間、内側で何かがひっくり返る。
土の精霊がその場でコマのように回転し始めた。
『ぐわわわわわ!! なんじゃこれは!!』
止まらない。ぐるぐるぐるぐる。
全員が固まって見ている。
イリスが静かに言う。
「……終わりましたか?」
土の精霊がよろよろと止まる。
『……相手を間違えたようだ』
エリーゼが静かに目を細める。
「……イリス、あなた、思ったより怖い子ですわね」
「……閣下への献身ですので」
サンネが腕を組む。「……ヒエラルキーが変わった気がする」
ミラが震える。「イリス、こわいんだゾ……」
魔王が少し距離を置く。「……アタシは関係ない」
闇の商人が静かに呟く。
「……インキュバスを倒した時より怖い」
『……イリスさん、生産系だと思ってたんだけどね』
『【石術:反転】、戦闘向きじゃないとは言ったけど……』
『使い方次第だったんだよね』
土の精霊がふらふらしながら言う。
『……でも、やめられないんじゃぞい』
全員が深くため息をついた。
◇ ◇ ◇
しばらくして。
土の精霊が今度は魔王に近づいていった。
『……ふむ』
全員が「やめろ」と思ったが、誰も止める間もなかった。
ベローン。
全員が固まる。
魔王が振り返る。
……怒っていない。
むしろ胸を張っている。
「……どうだ」
土の精霊が固まる。
『……怒らないのか?』
「アタシを見て何が悪い。むしろ感謝しろ」
ヘンドリックの内心。
『……そういう人だったんだよね』
『水着で街を歩く人だもんね』
『温泉施設に等身大の像を自主監修で建てた人だもんね』
しかし。
魔王がふと考える。
「……ただ、お仕置きは必要だな。礼儀の問題だ」
ぐしゃ。
魔王の足が、土の精霊の頭を踏んだ。
ぺちゃんこ。
『ぐえええええ!! なぜじゃ!!』
「見るのは構わない。だが無断でやるのは礼儀がない。筋を通せ」
土の精霊がぺちゃんこのまま呻く。
『……理屈が独特なんじゃぞい……』
踏まれたまま動けない。
そこへ、イリスが静かに近づいてきた。
土の精霊の目が輝く。
『お、助けてくれるのか!? さすが優しいイリスどのじゃ!』
イリスが魔王の足をそっとどかす。土の精霊を静かに助け起こす。
土の精霊が感動する。
『……なんと! 我輩、感動したんじゃぞい! やはりイリスどのは——』
ベローン。
『……なぜじゃ』
イリスの指先から石が飛ぶ。
土の精霊がまたコマのように回転し始める。
『ぐわわわわわ!!』
イリスが静かに言う。
「……助けた後でも、お仕置きは別です」
本日二度目。イリスは今回も一切動じていなかった。
全員が沈黙した。
魔王が腕を組んで頷く。
「……筋が通っておる」
ヘンドリックの内心。
『……助けてもらった直後にやるのか』
『この精霊、学習能力がないんだけどね』
土の精霊がよろよろしながら言う。
『……でも、やめられないんじゃぞい』
そして土の精霊の視線が、ふらふらと次の標的へ向いた。
ルミナリアだ。
全員が「やめろ」と思った。
しかし。
ベローン——の瞬間。
何かが自動で展開された。見えない何かが、王女の周囲に瞬時に張り巡らされた。絶対に侵してはならない領域。王族に生まれついた者が持つという、本能的な尊厳の防壁——通称、ロイヤルガード。
土の精霊の手が、見えない壁に弾かれた。
『……なんじゃこれは』
ルミナリアが涼しい顔で言う。
「……ロイヤルには、そういうものは通用せぬのじゃ。生まれながらの守護というやつじゃな」
土の精霊が悔しそうにしている。
『……禁断の逆三角形が……』
「黙れ」
ルミナリアが静かに、しかし確実に土の精霊を踏んだ。
ぐしゃ。
「……それと、絶壁ではないのじゃぞ。誤解するな」
誰も何も言わなかった。
ヘンドリックの内心。
『……誰も疑ってなかったと思うんだけどね』
『でも、本人が気にしてたんだろうね』
『聞かなかったことにしておこうかな』
エリーゼが笑顔のまま目を逸らした。
サンネが天井を見上げた。
ミラが「そ、そうなんだゾ……」と言った。
魔王が「……アタシより少ないのは認める」と余計なことを言った。
「魔王よ」
「……なんだ」
「後で覚えておれ」
広場が、しばらく静かになった。
◇ ◇ ◇
出発前。
ルミナリアが一行を見送る。王女は今回同行しない。王都で政治的な後方支援を担う。
闇の精霊がルミナリアの隣に静かに立っている。すでに自然にそこにいる。
「……無理しないでほしいかな」
ルミナリアが静かに笑う。
「婚約者が心配してくれるのは嬉しいのじゃ」
俺は少し固まる。
『……いつからそういう返し方をするようになったのかな』
『カトリーヌ夫人の影響かな』
カトリーヌ夫人が扇子で口元を隠して笑っている。
アルフォンスが書類を差し出す。
「閣下、道中の予算と報告書の書式はこちらに」
「……なんで旅先でも書類があるのかな」
「閣下が動けば記録が必要です」
「……うん」
ベルナデッタが最後に一言。
「……イリス殿、道中で閣下が無茶をされたら報告してください」
「はい、ベルナデッタ様」
「……閣下、お気をつけて」
ヘンドリックの内心。
『……監視役を置いていかれた気がするんだけどね』
『まあ、そういうことにしておこうかな』
◇ ◇ ◇
馬車が動き出した。
ヘンドリックが【空間拡張Lv1】で広げた馬車の中に、全員が収まっている。外から見ると普通の馬車だが、中は余裕がある。
闇の商人が感動している。
「……これが【空間拡張Lv1】の応用……」
ミラが「ボスの魔法ってやっぱりすごいんだゾ!」と言う。
『いや、こんなのLv1の応用なんだけどね』
『そんなに驚かれると困るんだけどね』
揺れる馬車の中で、イリスが何かを作り始めている。
「閣下、間もなく昼食の時間です」
「……馬車の中で作ってたの?」
「はい、閣下」
遠い目。
やがて昼食が配られた。
ミラが一口食べた瞬間、目を輝かせる。
「これうめえ!! なんで馬車の中でこんなのが!!」
その声で、さっきまでの土の精霊騒動も、魔王のお説教も、イリスの石の回転も、全部どこかへ吹き飛んだ。
「……確かにうまい」とサンネが静かに認める。
「……別に認めたわけじゃないが、おかわりをもらう」と魔王が言う。
「侯爵邸より……やっぱりうまい……」と闇の商人が泣く。
俺はふと我に返った。
『……あれ』
『俺、どうしてまたみんなで向かうことになったんだっけ』
『なんか気づいたら全員乗ってるんだけどね』
『スローライフしたかっただけなんだけどね』
サンネが窓の外を見ながら、ぽつりと呟いた。
「……魔王様ほどの強者になるには、恥じらいというものを捨てねばならないのか」
誰も答えなかった。でも全員が微妙な顔をした。
エリーゼが静かに腕を組んで言った。
「……ねえ、旦那様」
「うん」
「土の精霊は魔王様にもイリスにも行ったのに」
「うん」
「なぜわたくしのところには来ないのかしら」
馬車の中が静寂に包まれた。
ヘンドリックの内心。
『……エリーゼさん、それは聞いてはいけないことな気がするんだけどね』
『土の精霊が正気を保っているということだと思うんだけどね』
土の精霊が馬車の隅で正座していた。
どうやら答えは分かっているようだった。
『……恐ろしくて近づけないんじゃぞい』
エリーゼが笑顔のまま、土の精霊を見た。
土の精霊が全速力で馬車の隅に逃げた。
馬車は国境へ向かって、今日も走り続けた。




