第164話:消えた死体と、逆方向へ走るダミーたち
夜明けの街道。
俺は【気配遮断Lv1】を発動したまま、王都の影を背にして歩き続けていた。
「なぜ私がこんな目に……侯爵邸の食事は最高でしたのに……ふかふかのベッドでしたのに……シーツの肌触りが……」
「しっ」
「ひっ」
『……この人、止まらないな。もう三時間ぐらいぼやき続けてるんだけどね』
ぼやきの内容が「食事」から「シーツ」に移行し、次は「お風呂の温度」になるのが分かった。俺は静かに聞き流しながら、先を急いだ。
『道案内としては有能なんだよね。それは分かってる。文句が多いのは……まあ、仕方ないかな。俺が無理やり連れ出したのは事実だし』
俺が精霊使役を使うのは、本当に仕方ない時だけだ。魔力をごそっと持っていかれる上に、言うことを聞くのは最初だけで、あとは好き勝手に動き始める。今回、土の精霊と水の精霊に俺たちのダミーを任せてきたが——正直、今頃何をやらかしているかは考えたくなかった。
『まあ、エリーゼたちが追ってくる前に、少しでも時間が稼げれば、それでいいんだけどね』
◇ ◇ ◇
数日後。
俺たちは、あの白黒の襲撃者と戦闘になった跡地へと辿り着いた。
「……死体がない」
闇の商人が青ざめて周囲を見回す。俺も同じ結論に辿り着いていた。
あの時、俺は奴を地下深くに封印したはずだった。自爆したと思っていた。だが、残されていたのは、砕け散った白黒の「被り物(仮面)」の破片だけだ。そして、壁際には何かを引きずったような跡が続いている。
闇の商人が、震える手で破片を拾い上げた。
「これは……」
「知ってるのかな」
「……知っています。これは呪具です。装着者の意識を乗っ取り、肉体を強制的に操作する。素体となった人間は、仮面が砕けた後も生きています。つまり——」
「誰かが回収した、ってことだね」
沈黙。
俺は無言で、落ちていた破片を一つ拾い、懐にしまった。
『……自爆した、と思っていた。でも死んでいなかったなら』
『俺は、生きている誰かを水で封じた』
『封印はまだ解けていないはずだ。でも、回収されたなら』
……考えるのは後だ。
「もう少し奥を見てみようかな」
「え、まだ進むんですか!? さすがに体力の限界でして! というか私、戦闘員じゃないんですよ!?」
「うん。知ってるよ」
「じゃあなぜ!?」
「道を知ってるから、かな」
「ぐぅ……!」
『この人、抗議の仕方が毎回きちんとしてるんだよね。律儀というか、なんというか』
「しっ」
「ひっ」
俺は表情を変えないまま、奥へと歩を進めた。
◇ ◇ ◇
一方、王都近郊。
突如として発生したスタンピードに、貴族たちは一斉に騒ぎ立てていた。
「侯爵が領地を放棄したせいだ!」
「あの無責任男が管理を怠ったから!」
「婚約者まで置き去りにした逃亡者だぞ!」
ルミナリアは、悲しげな顔をしてそれを聞いていた。
その目だけが、冷たく笑っていた。
前線では、エリーゼ、サンネ、ミラの三人が、押し寄せる魔物の群れを次々と殲滅していた。ブラムとロッテがそれに続く。
【魔力譲渡Lv1】のバフも、ヘンドリックが作る安全地帯もない。それでも三人は圧倒的だった。
貴族たちが、絶句した。
「……侯爵がいなくても」
「あの三人だけで」
ルミナリアが静かに前に出た。
「婚約者が不在の間、わらわが代わりに礼を言おうぞ」
その笑顔の裏で、彼女はすべてを見ていた。どの貴族が騒ぎ、どの貴族が黙っていたか。どの顔が焦り、どの顔が安堵したか。
一つ残らず、記憶していた。
◇ ◇ ◇
スタンピード収束後。
エリーゼが向かった方角を特定し、三人で追跡を再開した。
街道を外れ、しばらく進んだ頃。
「ボスだ! ボスなんだゾ!」
前方に二つの人影を見つけた瞬間、ミラが目を輝かせた。小柄で猫背の男と、その隣でうなだれている男。どこからどう見ても、ヘンドリックと闇の商人だった。
「……待て、ミラ」とサンネが眉をひそめる。
「……」とエリーゼが静かに目を細める。
だが、ミラはすでに駆け出していた。
「ボス!! 心配したんだゾ! 一人で行くなんてひどいんだゾ! ちゃんと怒るんだゾ!!」
全力で、ぎゅっと抱きついた瞬間——
ぶしゃっ。
土と泥が、盛大に弾け飛んだ。
『……まかせておいたんじゃがのう。ぞい』
のんきな声を上げながら、土の精霊が崩れていく。
隣の「闇の商人のダミー」も、同時に霧散した。水の精霊が、最後まで詩的だった。
『我は流れゆく時の中で……果たされぬ使命を抱きて……ああ、なんと無常な……しかし、我の魂は永遠に——』
「消えながらも喋り続けてるのか、あの精霊……」とサンネが遠い目をした。
ミラが全身泥だらけで、その場に固まっていた。
沈黙。
「……ボスじゃ」
なかったんだゾ、と続くはずの言葉が、出てこなかった。
ミラがゆっくりと振り返る。その顔は、怒っているのか、泣いているのか、泥で全く分からなかった。
「……なんで言わなかったんだゾ!!」
「……あなたが嬉しそうだったから」
エリーゼが静かに答えた。それ以上、何も言わなかった。
サンネも、何も言わなかった。
三人の間に、風だけが吹いた。
ミラが泥だらけの手で、目元を拭った。泥で余計に汚れた。それでも彼女は前を向いた。
「……本物を捕まえに行くんだゾ」
エリーゼが、小さく微笑んだ。
「ええ。行きましょう」
サンネが剣の柄に手を添え、静かに頷いた。
三人は、今度こそ本物の方角へ向かって、歩き始めた。




