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レベル1を35個持ったおっさん、有能すぎて美女三人に包囲される〜レベル10大火力至上主義の世界で裏方が最強だった〜  作者: よっしぃ@書籍化


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第163話:夜明け前の逃走と、目から汗をかく族長

 深夜。侯爵邸は静まり返っていた。


 俺は、土の精霊が宿るダミー人形に手を加え、見た目を整えていた。


「まあ……しばらく好きにしてていいよ。そのうち元の場所に帰るだろうし」

『頼むから屋敷を壊さないでくれよ。ベルナデッタさんにバレたら、俺じゃなくて君が三時間正座させられるだけだけどね』


『まかせておくんじゃぞい!』


 呑気な声で答える精霊を横目に、俺は机に向かった。


 残すものは二つだ。


 一つ目は日誌。感情は一切排除する。パーティーへの引継ぎ事項だけを、客観的な事実として淡々と書き記す。エリーゼをリーダーとして信頼していること。未攻略ダンジョンのスタンピードリスクの情報。俺が把握している限りの、闇の商人組織の動向。


 書き終えて、ペンを置こうとした時、ふとページの端を見た。


 インクの染みが一か所だけあった。


『……俺がいつ落としたのかは、分からない』


 二つ目は、妹への手紙だ。


「ダンジョンでの件、俺の指示不足だった。守れなくてすまなかった。エリーゼたちの成長を最後まで見届けてやれなかった。元気でいてくれ」


『感情を書いていいのは、ここだけだ。それだけは決めていた』


 すべての準備を終え、部屋を出ようとした——その瞬間だった。


 暗い廊下に、獣王が立っていた。


「……行くのか」

「ああ」


『……なんで獣王がそこにいるのかな。というか、なんでそんな自然に俺の部屋の前に立ってるのかな。気配、全然感じなかったんだけど』


 獣王は俺の目を見たまま、それ以上何も聞こうとしなかった。強者としての矜持が、俺を止めることをよしとしなかったのだろう。


 その代わり、彼は無言のまま、片手で襟首を掴んでいた男を俺の前に差し出した。


 軟禁保護中だったはずの、闇の商人だ。


「ならこいつを連れていけ」

「ぎゃああ! 私は保護対象者では!? なんで急に!? というか族長! なんで私を持ってるんですか!?」


『……なんで闇の商人まで持ってるのかな。いつ捕まえたのかな。ていうか、この人も眠れてなかったのかな。色々と聞きたいことはあるけれど』


「……仕方ないね」


 俺が引き取ると、獣王は一度だけ頷き、何も言わずに背を向けた。


 俺は【気配遮断Lv1】を発動し、闇の中へと足を踏み出す。


「ちょっ……待ってください待ってください! せめて荷物を……!」

「しっ」

「ひっ」


 遠ざかっていく闇の商人の嘆き声だけが、夜の静寂にじわじわと溶けていった。


 ◇ ◇ ◇


 同じ夜。


 眠れずにいたサンネは、窓の外を静かに見つめていた。


 闇の中に消えていく、小柄で猫背の背中。その隣で何かを喚いている見覚えのある男の姿。


 サンネは無意識に、傍らの剣に手をかけていた。


 今すぐ窓を蹴破って追えば、止められる。


 ……止められる、のに。


 ゆっくりと、その手を下ろした。


 握りしめた剣の柄だけが、夜明けまでずっと温かかった。


 ◇ ◇ ◇


 朝。


 一階の廊下では、ダミー人形がいつも通りカシャカシャと歩き回っていた。


『おお! 今日も侯爵邸の廊下はよく滑るのう! これが文明というやつじゃな!』


「……こら。廊下を走るなと昨日も言いましたね」


 角から現れたベルナデッタが、眉一つ動かさずに腕を伸ばし、精霊の頭部をモップの柄でぽすりと押さえた。


『がはは! 我輩は土の精霊ぞい! そのような……ぐえ』


「今日は泥が廊下に落ちています。三か所。掃除が終わるまで、そこで正座です」


『……正座とはなんじゃ? 我輩には膝が……』


「作りなさい」


『……はい』


 精霊が神妙な顔で廊下の隅にしゃがみこむのを確認してから、ベルナデッタは表情一つ変えずに踵を返した。


 いち早く異変に気づいたのは、そのエリーゼだった。


 俺の部屋を確認すると、ベッドは綺麗に整えられ、机の上には日誌だけが置かれている。荷物の一部がなくなっていた。


 三百九十年を生きてきたエリーゼは、泣かなかった。怒らなかった。ただ無言のまま、自分の荷物をまとめ始めた。その動作には一切の無駄がなく、まるでずっと前からそうすると決めていたかのようだった。


 そこへ駆けつけてきたミラが、部屋の有様を見て声を上げた。


「ボスがいなくなったんだゾ……」


 その後ろに立つサンネは、泣きも怒りもせず、ただ一言こぼす。


「やはり行ってしまったか」


 エリーゼの手が止まった。


「……見ていたの?」


 サンネは答えなかった。


 重い空気が漂う中、ルミナリア王女が部屋へと現れた。彼女は全員の顔をぐるりと見渡すと——静かに、冷たく笑みを浮かべた。


「ちょうどよい。使わせてもらうぞ、このひと騒動」


 エリーゼとサンネが、瞬時に王女の目を見る。一瞬の沈黙の後、二人はほぼ同時に小さく頷いた。


 ただ一人、ミラだけが「どういうことなんだゾ?」と首をかしげていた。


 ◇ ◇ ◇


「俺が送り出した」


 ミラの前に姿を現した獣王は、短くそう告げた。


「くそおやじぃぃ! 族長はボスなんだゾ!」


 ミラは叫び、父である獣王に詰め寄った。拳を振り上げる。獣王はそれを正面から受け止めた。


 ドン、と廊下が揺れる。


「……なんで止めたんだゾ。ボスが一人で行っちゃったんだゾ。アタシが一緒に行けばよかったんだゾ」


「お前が一緒に行けば、あいつは連れて行かなかった」


 ミラの拳が、一瞬止まった。


「……どういうことだゾ」


「あいつは、お前たちを危ない目に遭わせたくなかっただけだ」


 ミラが再び拳を振り上げる。今度は泣きながらだった。獣王はそれも受け止めた。痛くもなさそうに、ただ静かに受け止め続けた。


 一頻り拳を交えた後、ミラの息が落ち着いてきた頃。獣王は無言のまま、懐から何かを取り出し、娘の手に握らせた。


 獣王家に代々伝わる護符だった。


「……これ」

「行け」


 たった二文字。それだけだった。


 ミラはしばらく護符を見つめてから、ぎゅっと握りしめた。


「……ボスを取り返してきてやるんだゾ」


「ああ」


 獣王は頷いた。それだけだった。


 娘を送り出し、一人になった廊下。


 獣王の目元が、微かに光っていた。


 ◇ ◇ ◇


 そこへ、正座を終えたらしい土の精霊が、カシャカシャと音を立てて通りかかった。


『さて! 我輩の活躍の時間じゃぞい! まかせておくん——』


 精霊が獣王の顔を見た。


 獣王が精霊を見た。


 沈黙。


『……なんじゃその顔は』


「うるさい黙っておけ。……これは汗なのじゃ。獣人族は目から汗をかくのだ」


『うひょ! およよでないか! ヤーイヤーイ! 族長が泣いておるぞい! 目から汗じゃぞい! うひょひょひょひょ——』


 獣王の眉間に、くっきりと青筋が浮かんだ。


「……貴様」


『がはははは! 我輩は土の精霊ぞい! 捕まるわけが——』


「こら」


 廊下の角から、モップを持ったベルナデッタが無表情で現れた。


「先ほどの正座の時間が終わっていませんね。戻りなさい」


『ぬわっ! タイミングが悪いのう! しかし我輩は今とても忙しくてじゃな——』


「忙しい?」


 ベルナデッタの目が細くなった。精霊はその視線を受けて一瞬固まり——そして、なぜかスイッと手を伸ばした。


 ベロン。


『……おお。白いのう』


 廊下が、音もなく凍りついた。


 獣王が目を見開く。


 ベルナデッタが、ゆっくりと精霊を振り返った。その表情は、先ほどまでと全く変わっていなかった。それが、逆に恐ろしかった。


「…………」


『あ』


「土に、返しましょうか」


 モップの柄が、音速で振り下ろされた。


 ごべらっ。


 ずびしっ。


 べごぶらべがっ。


『ぎゃああああ我輩の顔がああああ土になるうううう——!!』


「相手を選びなさい」


 べしべしべしべしべし。


『ゆるしてくだされえええ正座しますううう永遠に正座しますうううう——!!』


 廊下の向こうへ、精霊の悲鳴が遠ざかっていく。


 獣王が、じっとその光景を見送った。


 そして廊下の天井を見上げ、一つだけ、深く息をついた。


「……ヘンドリック」


 誰もいない廊下に、小さく呟く。


「あいつらに、鍛えられろ」


 侯爵邸は今日も、どこか賑やかだった。

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