第159話:客観的な日誌と、王都の屋敷のすれ違い
微かな消毒液の匂いと、柔らかいリネンの感触。
見慣れた王都の屋敷の天井を見つめながら、俺は静かに目を覚ました。
全身を覆っていた激痛は嘘のように引いている。おそらく、意識を失った後でエリーゼたちが強力な回復魔法を何度もかけ続けてくれたのだろう。起き上がってみると、折れていたはずの腕もあばらも完全に繋がり、体は問題なく動くようになっていた。
だが、ベッドから降りた俺の心は、鉛のように重く沈み込んでいた。
『……皆に、見せる顔がない』
窓の外の景色を眺めながら、俺はギリッと拳を握りしめた。
完全に油断しきっていた。まさか、自分が魔力総量7300を注ぎ込んで作った絶対の安全地帯に、あんな正面からの乗り込み方をされるとは夢にも思っていなかったのだ。
いや、思わなければならなかった。俺はパーティーのリーダーだったのだから。
自分の能力を過信し、強固な囲いさえできていれば皆を守れると慢心していた。あの重厚なドアは外からは絶対に開かない作りにしてあった。だから、侵入される心配はないと思い込んでいたのだ。
だが、内側から開けられてしまえば何の意味もない。戦闘経験のない闇の商人が不用意にドアに近づいた時、「何があっても絶対に開けるな」と事前に強く言っておくべきだった。
結果として、俺の指示不足と慢心が、パーティーを全滅の危機に陥れたのだ。大人として、そしてリーダーとして、決して許されるミスではなかった。
俺はベッドの傍らにあった机に向かい、引き出しから一冊の皮装丁のノートを取り出した。パーティーの記録をつけている日誌だ。
羽根ペンにインクを浸し、白紙のページにペン先を走らせる。
書き連ねていくのは、迷宮の深層で起きた出来事のすべて。だがそこに、俺の感情や後悔の念は一切書き込まなかった。敵の出現タイミング、攻撃の法則、パーティーの被害状況、自身の魔法の展開手順。
あとでエリーゼたちがこの日誌を読むことになるのだが、そこには俺がどれほど傷つき、どれほど自責の念に駆られているかなど微塵も書かれておらず、信じられないほど冷酷で『客観的』な事実のみが淡々と綴られていた。それはまるで、感情を切り捨てた機械が書いた報告書のようだった。
カリカリというペンを走らせる音だけが、静寂の部屋に響き続ける。
「……旦那様」
背後のドアがそっと開き、微かな声が掛けられた。
だが、日誌に異常なほどの過集中を見せている俺の耳には、その声は全く届いていなかった。
部屋を訪れたのは、エリーゼ、サンネ、ミラ、そしてルミナリア王女の四人だった。彼女たちは俺が目を覚ましていることに安堵の表情を浮かべたものの、机に向かって一心不乱にペンを走らせる俺の背中から放たれる『冷たすぎる空気』に気圧され、部屋の入り口から一歩も動くことができなくなっていた。
「主君……」とサンネが手を伸ばしかけるが、何か立ち入ってはいけない領域のようなものを感じ取り、力なくその手を下ろす。
彼女たちはただ、俺がペンを走らせる背中を、痛ましそうに見つめることしかできなかった。
廊下へ視線を移せば、ブラムとロッテの二人が、部屋の中には入らずにあえて距離を取って立ち尽くしている。彼らもまた、今の俺に安易に声を掛けるべきではないと悟っていたのだ。
そして、この屋敷に魔王の姿はすでになかった。
『アタシは己がこれほど弱かったことに、初めて気が付いた。一から出直す』
俺が意識を失っている間に、彼女はアルフォンスにそんな短い伝言を残し、王都の屋敷から一人で姿を消していたのだ。最強としてのプライドを粉々に砕かれた魔王もまた、己の弱さと向き合うための旅に出たのだろう。
重く、息が詰まるようなシリアスな空気が、王都の屋敷全体を覆い尽くしていた。
……だが、その空気を全く読んでいない存在が約一名、いや、一体いた。
『おお、この屋敷の廊下はよく滑るぞい! 掃除が行き届いておるな!』
一階の廊下では、俺の姿を模した土気色のダミー人形……『土の精霊』が、カシャカシャと足音を立てて自由気ままに動き回っていた。
「こら! そこの泥人形! 廊下を走るなと言っているでしょう! 床に泥が落ちたらどうするつもりですか!」
メイド長のベルナデッタが、青筋を立ててモップ片手に精霊を追い回している。普段なら泣く子も黙るベルナデッタの容赦ない叱責だが、何百年も生きている怖いもの知らずの精霊には全く効いていなかった。
『がはは! 我輩は土の精霊ぞい! 少々の泥など気にするな! むしろ自然の恵みじゃ!』
「恵みで床が綺麗になりますか! 待ちなさい、その顔面をピカピカに磨き上げてやりますよ!」
ドタバタと騒がしい追いかけっこが繰り広げられる廊下の反対側では、アルフォンスが眼鏡を光らせながら、積み上がった書類を黙々と処理していた。魔王の突然の出奔で生じた諸々の手続きと、迷宮での一件を受けての報告書の作成。どちらも一刻も早く片付けなければならない案件だ。
「……シリル殿」
アルフォンスが、廊下の柱に寄りかかって二階を見上げていたシリルに低い声で話しかけた。
「閣下の様子は?」
「……ずっと日誌を書かれています。声をかけても気づかれない」
シリルが眼鏡を押し上げ、難しい顔で答える。
「そうですか」
アルフォンスは静かに書類から目を離し、二階の天井を見上げた。
「あの方は、自分が傷ついていることより、周囲に心配をかけることの方を気に病む。……しばらくは、そっとしておくのが得策でしょう」
「同意します。ただ」とシリルが珍しく歯切れ悪く言葉を継いだ。「このまま閉じこもられても困る。何か手を打つ必要がある」
「ええ。……そのための準備は、すでに始めています」
アルフォンスが静かに眼鏡を押し上げ、再び書類へと視線を落とした。
二階の寝室で心を閉ざし続ける俺と、一階で騒動を巻き起こす俺のダミー。そして、それぞれの持ち場で静かに動き始めた者たちと。
この奇妙で歪な共同生活は、俺が屋敷から姿を消すまでのわずかな間の、嵐の前の静けさに過ぎなかった。




