第158話:最強の猛省と、崩れ落ちた背中
「……あん? なんだお前ら、アタシに盾突く気か?」
殺気を放つエリーゼとルミナリアに対し、魔王は不機嫌そうに目を細め、さらに俺の頭を踏みつける力を強めようとした。
「盾突くも何もありませんわ! 貴女はご自分が何をされているのか、本当に分かっていらっしゃるの!?」
普段は気品に満ち、常に冷静なはずのエリーゼが、夜叉のような形相で激昂していた。彼女の周囲の空気が凍りつき、パキパキと霜が降りるほどの怒りの魔力が放出されている。
「旦那様は、ご自分の命を削って私たち全員を救ってくださったのです! あの得体の知れないバケモノを前にして、最強を名乗る貴女も含めて、私たち全員が赤子のように手も足も出なかったではありませんか!」
「わらわたちが無様に床で転がっている間、ヘンドリックただ一人が血を流し、骨を砕きながらも知略を尽くして敵を屠ったのじゃ! 己の不甲斐なさを棚に上げ、誰よりも傷ついている彼を足蹴にするなど、断じて許さぬ!!」
王女の怒りに満ちた言葉が、冷水のように魔王の頭から浴びせかけられた。
その言葉に、魔王はハッとして足元に這いつくばる男を見下ろした。
折れ曲がった右腕。呼吸のたびに異音を漏らす胸部。泥にまみれた服の下には無数の打撲痕があり、床には彼が吐き出したどす黒い血溜まりが広がっている。
それは、彼がどれほどの絶望的な死闘をたった一人でくぐり抜けてきたかを、あまりにも雄弁に物語っていた。
自分はどうだったか。強者を気取り、敵に一直線に突っ込んでいき、指先一つであっけなく弾き飛ばされ、ただ目が回って床で伸びていただけではないか。
最強の存在であるはずの自分が、いざという時に何の役にも立たなかった。それどころか、満身創痍で自分たちを守り抜いた男に対し、八つ当たりで暴力を振るっている。
「……っ」
魔王は火を触ったかのように、弾かれたように足を引っ込めた。
ギリッと奥歯を強く噛み締め、そのまま崩れ落ちるようにその場に膝をつく。己の傲慢さと、何もできなかった圧倒的な無力感が、津波のように彼女の胸に押し寄せていた。
「……すまぬ。アタシが、間違っていた……っ。アタシは……己の情けなさと無様さを、お前に八つ当たりしただけだ」
かつて世界を震え上がらせた魔王が、顔を歪め、屈辱と後悔に肩を震わせながら、泥の床に両手をついて頭を下げた。
だが、俺はそれでも顔を上げようとはしない。魔王の謝罪も、エリーゼたちの擁護も、今の俺にはまるで届いていなかった。
「……違う。俺の責任だ。俺が、もっと強ければ……もっと周囲に気を配っていれば、こんなことには……」
三十五年間、誰かの後ろで支え続けてきた大人としての責任感が、俺の心を黒く塗り潰していく。一歩間違えれば、ここにいる全員が死んでいた。その恐怖と己の不注意に対する嫌悪感が、胸を締め付けて離さないのだ。
うわ言のように謝罪を繰り返す俺の背中を見つめながら、サンネもミラも、ブラムやロッテも、皆が声を出して泣きじゃくることしかできなかった。誰もが己の弱さを呪い、誰もがこの男に甘えきっていた己の姿を恥じていた。
そんな、あまりにも重く苦しい静寂と嗚咽を破る声があった。
『おお、見事な大団円ぞい! いやはや、我輩もダミー人形として大活躍じゃったし、主の機転は見事なものじゃった! めでたしめでたし……』
俺の姿を模した泥人形……土の精霊が、この地獄のような空気など一切読まず、お調子者よろしく呑気な声を上げて床下から這い出してきたのだ。
「……お前は、少し黙ってろ」
俺が掠れた声で痛烈なツッコミを入れた、その直後だった。
精霊の声によって、極限まで張り詰めていた緊張の糸が、プツリと音を立てて切れてしまった。
それと同時に、今まで精神力だけでねじ伏せていた全身の激痛と、魔力枯渇による強烈な疲労感が、一気に脳を殴りつけてきた。
「あ……」
俺の体は糸の切れた操り人形のように、泥の床へと力なく崩れ落ちた。
「旦那様!?」
「師匠!!」
「お、おい! おっさん!!」
薄れゆく意識の中で、仲間たちの悲痛な叫び声が遠ざかっていく。俺は深い暗闇の中へと、泥のように沈み込んでいったのだった。




