第148話:魔王の狼狽と、夢魔の誤算
「最初はグー!」と叫びながら乱入してきた魔王だったが、俺の「脳内桃色空間」は相手が魔王であろうと容赦なく牙を剥いた。
「……魔王様。君のその服、すごく似合ってるよ。君の強さも美しさも、俺が一番よく分かってるからね」
俺は魔王の漆黒の密着戦闘服の腰に手を回し、その顔を真っ直ぐに覗き込んだ。
「なっ……!? なんだ、これは……っ。おお? 乙女というのは、このような扱いがいいのか? ……いや、アタシにはまだ早かったようだぜ……っ!」
さしもの魔王も、俺の無自覚で真っ直ぐな口説き文句には勝手が違ったらしい。顔を真っ赤にして視線を泳がせ、力技で俺の腕をいなして距離を取った。
ヒロインたちが「魔王まで!?」「抜け駆けですわ!」と騒然とする中、ずっと空気と化してパーティーの最後尾で縄を引かれていた闇商人組織の男が、恐る恐る口を開いた。
「あ、あのう……皆様。どうやら、最深部に着いたようですが……?」
その言葉に、顔の赤みを誤魔化すように、魔王がギロリと闇の商人を睨みつけた。
「……あん?」
地を這うような、ドスの効いた魔王の凄みに、闇の商人がヒッと短く悲鳴を上げて首をすくめる。
「ちっ! もう着きやがったか……。ほらおっさん、あんたの出番だぜ!」
魔王に背中をドンと押され、俺は開け放たれた豪奢な扉の中へと押し出された。
そこに待ち受けていたのは、妖艶な美女……ではなく、はだけたシャツから見事な筋肉を覗かせた、美形の男性悪魔だった。
「ようこそ、愛に迷える子羊たちよ。私がこの迷宮の主、インキュバスだ」
『……ねえ。ピンク色の霧にサキュバスの群れときて、なんで最後のボスがインキュバス(夢魔の男)なのかな!? 男の俺がどうやって戦えって言うのさ!』
俺の内心の絶叫が響き渡る中、はだけたシャツから見事な胸筋を覗かせた美形の悪魔が、甘い声でウインクを飛ばしてきた。
その瞬間、俺の脳内を支配していた「桃色空間」の靄が、スゥッと音を立てて完全に消え去った。三十五歳のおっさんの精神は、極限のカオスを経て、もはや一切の感情が波立たない「完全なる賢者モード」へと移行していたのだ。
「さあ、美しい乙女たちよ。そんなむさ苦しいおっさんのことは忘れて、私と永遠の夢を――」
インキュバスがエリーゼたちに向かってキメ顔で手を差し伸べる。だが、迷宮の主の自信に満ちた誘惑は、かつてないほど冷酷な反応で迎えられた。
「……は? 貴方、旦那様のあとにその程度の言葉で私を口説けるとお思いですの? 鏡を見て出直してきなさい」
「ふん。主君の不器用で真っ直ぐな言葉に比べれば、羽虫の羽音よりも心に響かぬわ!」
「ボスの匂いの方がずっと落ち着くんだゾ! お前、なんか香水くさいゾ!」
「わらわを誰だと心得る! ヘンドリックほどの男でなければ、この胸は高鳴らぬわ!」
エリーゼの氷の冷気、サンネの雷鳴、ミラの獣の威圧、そして王女の扇子から放たれる圧倒的な覇気。 直前まで俺の無自覚な猛攻で骨抜きになっていた彼女たちは、良いところを邪魔された怒りも相まって、インキュバスに対して絶対零度の殺気を放っていた。
「えっ……? あれ? 私、インキュバスだよ? 魅了の魔法も全力でかけてるんだけど……なんでそんなにゴミを見るような目で見られてるの……?」
さしものボスも、百発百中だったはずの自分の誘惑が全く通じないどころか、激しい嫌悪感を向けられて本気で戸惑い始めている。
「がははは! そりゃあ、お前が出る幕じゃねえよ! この嬢ちゃんたちはな、たった今、お前なんかよりよっぽどタチの悪い『天然の人たらし』に骨抜きにされた直後なんだからな!」
魔王が腹を抱えて大爆笑する中、俺はただ遠い目で天井を見つめていた。
『……ねえ、誰か。俺がさっきまでしでかした記憶も、ついでに消してくれないかな。この後、どんな顔で彼女たちと接すればいいのか、本気で分からないんだけどさ』
「ええい、旦那様との時間を邪魔した罪、万死に値しますわ! 皆様、一斉攻撃です!」
「応!」「任せるんだゾ!」「塵一つ残すな!」
哀れなインキュバスがこれ以上口を開く間もなく、四方向からの集中砲火がボスの間を吹き飛ばした。
三十五歳の裏方おっさんが率いるパーティーの迷宮攻略は、こうして色々な意味で取り返しのつかない爪痕を残し、幕を閉じたのであった。




