第146話:勝者の特権と、崩れる氷の仮面
「最初はグー、じゃんけん、ぽん!!」
迷宮の静寂(淫魔の羽音は絶えなかったが)を切り裂くように、四人の女性たちの手が振り下ろされた。
その結果は、あまりにも残酷で、そして王女にとっては劇的なものだった。
「……勝った。わらわの勝ちじゃ! ひれ伏すがよい、この勝利こそが正妻(仮)への第一歩よ!」
勝ち名乗りを上げたのは、王国の第一王女だった。彼女は扇子をパチンと閉じると、周囲のライバルたちの悔しそうな視線を浴びながら、悠然と俺の懐へと滑り込んだ。
一方で、じゃんけんに負けたエリーゼ、サンネ、ミラの三人は、まるでこの世の終わりのような絶望の表情を浮かべた後――恐ろしいまでの殺気を放ち始めた。
「……皆様。あのような淫魔どもが飛んでいては、王女様と旦那様の『お時間』の邪魔になりますわね。一秒でも早く、一匹残らず駆除いたしましょう」
「応! わが風と雷鳴の剣で、不浄な羽虫どもを塵一つ残さず切り伏せてくれる!」
「ボスといちゃいちゃする時間はアタシが最短記録で終わらせてやるんだゾ! うおおおおおッ!」
『……ねえ、君たち。いくら抜け駆けが許せないからって、八つ当たりで迷宮のモンスターを乱獲するのはどうかと思うんだけどね。さっきから淫魔たちの悲鳴がすごいことになってるんだよ』
背後で繰り広げられる大虐殺をよそに、俺の意識は「脳内桃色空間」の深い霧の中に沈み込んでいた。
「ふふん、他の者どもが騒がしいが……ヘンドリック、貴殿の身の振り方を決めるのはこのわらわじゃ。さあ、思う存分わらわを崇め、愛でるがよい」
「……ああ、そうだね。君の言う通りだ、王女様」
俺は自分にしがみつく王女の腰をさらに強く抱き寄せると、その気高い瞳をじっと見つめ返した。
「ずっと、こうして君を抱きしめたかったんだ。……君はいつも完璧で、誰よりも気高くて。でも、俺の前ではそんなに強がらなくていいんだよ」
「なっ……!? ヘ、ヘンドリック……? 貴殿、何を……っ」
「ねえ、もっと近くで君の声を聞かせてくれないかな? 君の声で名前を呼ばれるのが、一番嬉しいんだ」
魔力総量7300を誇る俺の精神は、術の影響を深いところまで取り込み、無自覚な「攻め」の姿勢へと反転していたのだ。常に完璧な王族の装いと態度を崩さなかった彼女が、俺の言葉一つで完全に「恋する乙女」の顔になって震えている。
いよいよ唇が重なるかという、その刹那だった。
ふっ、と辺りに漂っていた桃色の霧が霧散した。
「はい、そこまでですわ!!」
エリーゼの鋭い声とともに、王女の体は俺から強引に引き剥がされた。見れば、周囲を飛び回っていた淫魔たちは、三人の尋常ではない猛攻によって一匹残らず駆逐されていたのだ。
「まだ駄目である!! 順番とはいえ、迷宮のど真ん中でそのような破廉恥な行為、騎士として見過ごすわけにはいかぬ! さあ、まずは移動しながら前方の敵を片付けるのが先だ!」
サンネの号令によって強引に陣形が押し上げられ、俺たちは戦闘をこなしながら迷宮の奥へと移動を開始した。
だが、俺の体はまだ完全に「脳内桃色空間」の支配下にあった。
『なんだこれ! 俺の口が勝手にしゃべってる! 体が勝手に動いてるぅ! 誰か助けてくれぇ!』
内心では三十五歳のおっさんが涙目で絶叫しているのに、俺の腕はしっかりとエリーゼの腰を抱き寄せ、戦闘の余波から守るように優しくエスコートしていた。
「……サンネの言う通りだね、エリーゼ。でも、こんな危険な場所でも、君が側にいてくれるなら俺は何も怖くないよ」
「だ、旦那様……っ。戦闘中なのに、そんなに甘い声で耳元で囁かないでくださいませ……っ。私の結界の構築が、乱れてしまいますわ……」
心の叫びとは裏腹に、見た目はエリーゼを全力で口説きにかかっている構図が出来上がっていた。
その後方では、ブラムとロッテが必死に武器と魔法を振るいながらも、俺たちの様子をハラハラドキドキしながら見守っている。
「師匠! いけええぇ! あそこまで言ったんだから、もうブチュウッといっちまええぇ!」
「ブラム君、剣の手が止まってますよ! ……でも、いよいよですか? とうとうキスですか!? はっ、手記の新しいページを開かないと!」
「がははは! いいぞ、もっとやれえ! おっさんがヒロインどもを次々と手籠めにしていくたぁ、極上のエンターテインメントだぜ!」
魔王に至っては、密着した戦闘服姿で腕を組み、俺がヒロインたちを翻弄している状況を腹の底から楽しんで大笑いしている。最後尾で縄を引かれている闇の商人は、完全に空気と化していた。
そんな外野の騒ぎなど、今の俺には届かない。
俺は立ち止まり、俺の腕の中で戸惑うエリーゼと正面から向き合った。そして、彼女の透き通るような美しい銀色の髪を、ゆっくりとかき上げた。
「君はいつも、俺を支えてくれる。その銀色の髪も、透き通るような肌も、全部俺のものだって、今ここで確かめさせてくれないかな?」
「……っ!? あ、あ……」
ハイエルフとして三百九十年を生きてきた彼女の余裕が、音を立てて崩れ去っていく。エリーゼは完全に言葉を失い、ゆでだこのように顔を真っ赤にして腑抜けてしまった。
俺の顔が、逃げ場のない距離まで近づいていく。
エリーゼが、小さく震えながらそっと目を閉じた。
(いよいよキス? 本当にキスなのですの!?)
互いの吐息が混じり合う、その瞬間のことだった。




