第142話:最強の家臣と、嵐のあとの湯煙
「……ねえ、アルフォンスさん。いつの間に俺の屋敷に温泉が湧いたのかな? 昨日まではただの広いお風呂だったはずなんだけどさ」
『石造りの壁がいつの間にか情緒あふれるヒノキ造りになってるし、漂ってくるのは明らかに上質な硫黄の香り。これ、便利屋の修復スキルのレベルじゃ追いつかない速度でリフォームされてるよね……?』
「閣下、何を仰っているのですか。主君が激務の合間に羽を伸ばし、かつ重要顧客や他国の要人を接待するための『迎賓設備』として、昨夜のうちに王都の源泉から直接パイプを引かせていただきました。当然、侯爵家御用達の最高級仕様です」
眼鏡を光らせて淡々と語るアルフォンスに、ヘンドリックは遠い目を向けた。
その背後では、ベルナデッタによって「物理的なお仕置き」と「精神的なお説教」を三時間みっちり叩き込まれた魔王と獣王が、魂の抜けたような顔で廊下に座り込んでいる。
「……さて。お二人とも、汚れを落として頭を冷やしてきなさい。……閣下、彼らの監視はお願いしますよ」
「え、俺がやるの? ベルナデッタさんがやった方が確実だと思うんだけどね」
『魔王と獣王の監視をおっさんに丸投げするとか、俺の命を何だと思ってるのかな。……まあ、今のあの二人なら、子羊より大人しそうだけどさ』
こうして、ヘンドリックは(無理やり)二人を引き連れ、新設されたばかりの「侯爵邸・大浴場」へとやってきた。
「ふぅ……。お湯は、最高なんだけどね……」
ヘンドリックは広い男湯の湯船に肩まで浸かり、長い、長い溜息を吐いた。
「……済まなんだ、ヘンドリック。俺としたことが、つい熱くなってしまった。貴殿の屋敷を、あんなにボロボロに……」
隣では、岩のような巨躯の獣王が、小さな風呂桶を抱えて縮こまっている。その背中には、ベルナデッタにつねられたのであろう、恐ろしい手形の痣がくっきりと残っていた。
「いや、いいんだよ。門も壁も、アルフォンスさんが『賠償金でさらに豪華にする』って息巻いてたしね……」
『獣王が俺に対して「済まなんだ」なんて敬語気味に謝ってくるとか、あのメイド長、一体どんな地獄を味わせたのかな。怖くて一生聞けないんだけどさ』
一方で、壁を隔てた女湯の方からは、賑やかな、というよりは不穏な声が響いてきた。
「はぁ~! 人間の街の温泉ってのは、魔族領のマグマ風呂とはまた違った良さがあるな! このお湯、魔力も回復するじゃないか!」
「魔王様、はしゃいで泳いではいけませんわ。……それからエリーゼ様、ルミナリア様。旦那様の『英雄化計画』の進捗ですが、次はダンジョンの功績を大々的に広報するべきかと」
「うむ、ベルナデッタ。王家としても、ヘンドリックの地位を盤石にするための予算は惜しみまぬのじゃ」
『……ねえ、向こう側ですごく恐ろしい「おっさん包囲網」の会議が開かれてる気がするんだけどさ。俺、このままのぼせるまでここにいてもいいかな? むしろこのままお湯に溶けて消えたいんだけどね』
新設された温泉という名の「極上の檻」。
湯気に包まれながら、三十五歳の侯爵は、かつてヘラフテンの共同浴場で安らいでいた頃の自由を、切なく思い返すのであった。




