第141話:勘違いの「理(ことわり)」と、物理的親睦会
「……ん? おお! そこにいるのは、我が娘ミラが世話になっているボス! ヘンドリックではないか!」
侯爵邸の中庭。粉砕された正門の向こう側から、獣王が地鳴りを立てて歩み寄ってきた。その圧倒的な威圧感に、エリーゼたちがとっさに身構えるが、獣王は豪快に笑ってそれを制した。
「ガハハハ! 案ずるな。俺がこの男に手を出すはずがなかろう。……なにせこのヘンドリックは、かつて俺の渾身の拳を『掌』一つで完全に制した、真の強者なのだからな!」
「「「……えっ?」」」
エリーゼ、ルミナリア、サンネの視線がヘンドリックに突き刺さる。彼女たちは、水の都ヘラフテンでのあの死闘(第89話・第90話)を、今でも鮮明に覚えていた。だが、当事者である獣王の口から語られる「解釈」は、彼女たちの記憶をあらぬ方向へと書き換えようとしていた。
『……いや、ちょっと待って。あの時、俺はただ必死だっただけなんだけどね』
ヘンドリックは冷や汗を流しながら、当時の記憶を呼び戻していた。
あの時、猛り狂う獣王が幼い少女――真央を目掛けて、山をも砕くような拳を突き出した。それを見たヘンドリックは、思考よりも先に体が動き、無我夢中で手を広げ(パー)、身を挺してその拳を押し止めたのだ。
「フッ……あの時の光景は忘れん。俺が全力で放った必殺の『拳』。それを貴様は、背後の幼子をかばいながら、何ら気負うこともなく『開いた手』で受け止めてみせた」
獣王は感慨深げに、己の巨大な拳を見つめた。
「後で知ったが、人間には『じゃんけん』という拳の理を競う遊戯があるそうだな。拳は掌に勝てぬという、あの世界の理を体現したかのような貴様の防御……。あの一撃を無傷で制された瞬間、俺は貴様という男の器に心底惚れたのだ!」
「「「…………!!」」」
ヒロインたちの顔が、驚愕から「戦慄」へと変わっていく。
「……そうですわ。あの時の旦那様は、確かに獣王様の拳を掌で包み込むようにして止めていらっしゃいました。あれは咄嗟の防御ではなく、相手の最強の一撃を『じゃんけんの理』で無力化する、高度なカウンターだったのですわね……!」
エリーゼが頬を染め、感極まった声を出す。確かに彼女たちは見ていた。だが、獣王の「じゃんけん理論」を聞かされた今、ヘンドリックの必死な姿は「あえてパーを差し出すことで、戦う前に勝利を確定させていた達人の余裕」へと脳内変換されてしまった。
「うむ……。獣王の剛腕に対し、魔法も剣も使わず、ただ『手のひら』で制する究極の『柔』。……なんと恐ろしい男じゃ、ヘンドリック。わらわですら、その深淵の底が見えぬぞ」
ルミナリアまでが、冷や汗を流しながら戦慄している。
『違うんだってば! じゃんけんのルールなんて当時は知らなかったし、あの時は手が粉々になるかと思って必死に盾になっただけだよ! なんで俺の決死の防御が「最強のじゃんけん戦術」にされてるのかな……。あと、誰も俺の手の骨が折れてないか心配してくれないのは、どうしてかな?』
ヘンドリックの内心の叫びなど露知らず、話を聞いていたボディコン姿の魔王が、ガバッと身を乗り出した。
「がははは! 面白いじゃないか! あのゴリラの拳を『パー』で制したってのか! おっさん、やるじゃないか!」
「気に入ったぞ! 獣王、貴様の拳を止めたというその力、アタシももっと間近で見せてもらおうじゃないか! おっさんとの勝負は後回しだ、まずは貴様とアタシでどっちが強いか決めようぜ!」
魔王が闘気を爆発させ、獣王に向かって飛びかかる。
「ヌハハハ! 望むところだ! この王都の地、どちらの拳がより重いか、物理で語り合おうではないか!」
ドゴォォォォンッ!!
再び、二人の規格外による肉弾戦が勃発した。拳と拳がぶつかるたびに、侯爵邸の石畳が弾け飛び、屋敷の壁に新たなひびが入っていく。
「がははは! 良いぞ! もっと来い!」
「久しいのう! これほど力任せに殴れる相手は!」
もはやヘンドリックのことなど忘れ、楽しそうに物理で親交を深め合う魔王と獣王。
「……」
『ねえ、誰か止めてくれないかな。このままだと、闇の商人を討伐する前に、俺の家が地図から消えちゃうんだけどね』
凄まじい衝撃波で庭の木々がなぎ倒されるのを眺めながら、三十五歳の侯爵は、ただ静かに「修復スキルのレベルを上げなきゃな」と遠い目で考えるのであった。




