第131話:有能すぎる家臣夫婦と、冒険者の断末魔
王都の屋敷の応接室。ヘンドリックは、この国の重鎮である公爵と、その妹君であるカトリーヌ夫人からの突然の訪問を受けていた。
「公爵様に、カトリーヌ夫人。兄妹揃ってどうしたのかな?」
『嫌な予感がする。この二人が揃って笑顔でやってくるときは、大抵ろくなことが起きないんだよね。この前の貸し切り温泉の一件で恩を売ったつもりが、逆に逃げ道を塞がれるパターンかな……』
「ふふ、そんなに警戒しないで、ヘンドリック侯爵。貴方が屋敷の管理に頭を抱えているってシリルから聞いたのよ。だから、私たちの推薦で最高の『メイド長』を連れてきたわ」
カトリーヌ夫人が優雅に扇で口元を隠して手招きをすると、一人の女性が音もなく部屋に入ってきた。
その姿を見た瞬間、ヘンドリックは思わず仰け反った。
「失礼いたします。本日より、侯爵閣下のお屋敷の管理を拝命いたしました、ベルナデッタと申します」
ベルナデッタ。年齢は三十八歳。ヘンドリックより三つ年上だ。
漆黒の髪を完璧にまとめ、冷徹なまでの美しさを湛えた彼女は、百七十五センチを超える長身だった。小柄で猫背気味のヘンドリックに対し、凛とした立ち姿はまるでおっさんを見下ろす巨塔のようである。
「……あ、よろしくね、ベルナデッタさん。背、高いね……」
『うわ、見上げすぎて首が痛いんだけど。しかもこの人、目が笑ってない。完全に俺を「矯正が必要なだらしない主」として見てるよね……?』
「……。閣下、まずはその猫背から直しましょうか。それから、その隣に控えておりますのが夫であり、このたび『家令』を拝命いたしましたアルフォンスです」
ベルナデッタの背後から、眼鏡をかけた知的な男性が歩み出た。夫婦揃っての着任である。
「閣下。領地経営と対外的な書類仕事、すべてスケジュールを組み直しました。今日から一日の睡眠時間は六時間、それ以外はすべて『侯爵』としての公務に充てていただきます」
「……は? いや、ちょっと待って。俺にはやりたいことがあるんだけどね」
『夫婦? 夫婦で俺を詰めにきたの? 睡眠時間まで指定されるとか、便利屋時代よりブラックなんだけどさ』
ヘンドリックはたまらず立ち上がり、机を叩いて叫んだ。
「俺は冒険者なんだあああ! 今回の事件の黒幕……闇の商人を何とかしなきゃいけないんだよおお! 侯爵なんてやってられっかああ!!」
魂の叫びであった。自分はあくまで現場の人間であり、ドロドロした貴族社会に浸かっている暇はないという、限界を迎えた彼なりの必死の抵抗だ。
しかし、アルフォンスは眉一つ動かさず、淡々と書類をめくった。
「……閣下。闇の商人の活動は現在、国家経済を揺るがす重大な『犯罪組織のテロ行為』に分類されています。これに対抗するには、個人の武力ではなく、軍隊の運用、物資の差し押さえ、そして近隣諸侯との政治的連携が不可欠です。つまり、閣下が侯爵として執務室に座り、印章を押し続けることこそが、闇商人への最大かつ最も効果的な攻撃になるのですよ」
「え……?」
「現場に出たい? 結構ですが、閣下が泥にまみれて魔物を一匹倒している間に、この執務室で動かせるはずだった数千の兵と莫大な予算が腐ります。それがどれほどの損失か、ご理解いただけますか?」
論理の暴力。ぐうの音も出ない正論に押し潰されそうになったヘンドリックだったが、そこでハッと一つの「事実」を思い出した。
「い、いや、ちょっと待ってほしいかな! 俺、国王陛下から直々に命令されてるんだよ!?」
『そうだ、俺には最大の切り札があるじゃないか!』
ヘンドリックはここぞとばかりに胸を張り、アルフォンスを指差した。
「闇の商人はまだ完全に脅威を取り除けてない! そして俺は陛下から『完全に取り除け』って王命を受けてるんだよ! これ、達成しないといけないよね? 軍隊や書類を動かすのを待つより、俺が直接行って叩き潰した方が早くて確実でしょ!」
王命。その言葉が出た瞬間、さすがのアルフォンスも言葉を詰まらせ、ベルナデッタも静かに頭を下げた。
「……なるほど。国王陛下からの直々の勅命であれば、現場に向かうこともやむを得ませんね」
「でしょ!? だから俺は現場に行くから! 侯爵の仕事なんて後回しだよ!」
勝った。有能な家臣を論破し、息苦しいデスクワークから見事逃げ切った。
ヘンドリックは安堵の息を吐き、足早に応接室を出て行こうとする。
「……しかし、閣下」
背中越しに、アルフォンスの冷徹な声が響いた。
「王命を完全に達成し、闇の商人を一人で壊滅させたとなれば、閣下の功績と名声は『絶対的なもの』となります。もはや侯爵どころか、国家の英雄として完全に王都に縛り付けられ、二度とスローライフなどという妄言を吐けない立場になりますが……本当によろしいのですね?」
王命の達成=完全なる詰み。
その残酷な事実を突きつけられたが、極限まで追い詰められていたヘンドリックの頭は全く回っていなかった。
「ああ、いいよ! とにかく今は陛下の命令が最優先だからね! じゃあ行ってくるから!」
『よっしゃ! 言いくるめてやった! とにかくあの息苦しい執務室から逃げられれば、あとはどうにでもなるでしょ!』
目先の自由を手に入れ、足取り軽く屋敷を飛び出していくヘンドリック。
その後ろ姿を見送りながら、応接室に残された者たちは、深い、深い同情のため息をついた。
「……愚かですわね」
ベルナデッタが冷たく呟く。
「ええ。あんなに喜んで現場へ向かいましたが、あれが『自由な冒険者』としての最後の仕事になるでしょうに」
アルフォンスが眼鏡を押し上げる。
「うむ。すべてが終わった後、絶望して泣き叫ぶ旦那様の顔が今から目に浮かぶようですわ」
「まったく、主君は詰めが甘いのだ」
エリーゼやサンネたちも、生温かい目で頷き合っていた。
その場しのぎで飛び出した三十五歳の背中に、完全なる『侯爵(貴族)ルート固定』の罠が迫っていることに、彼自身だけが気づいていないのであった。




