第128話:自称妻たちの協定と、一番弟子の線引き
「あのさ、俺はまだ三十五歳だよ。五十歳の壁まではあと十五年もあるんだけどね。勝手に老人扱いしないでほしいかな……」
『頼むからこれ以上、俺の胃を縮めるような話題は勘弁してほしい。五十歳のスキルポイント減少問題なんて、考えるだけで頭が痛いんだから』
王都の屋敷のリビング。
ポイント減少の危機を煽ってくる周囲に対し、ヘンドリックはため息交じりに自身の年齢をアピールしていた。三十五歳。冒険者としてはベテランの域だが、老け込むにはまだ早い現役世代である。
「はいはい、三十五歳ですね。存じておりますわよ、旦那様」
「うむ。男としては一番脂が乗って、魅力的な時期じゃな」
「……で、その物騒な羊皮紙はなんだい?」
『嫌な予感しかしない。今すぐ【気配遮断Lv1】で逃げ出したい』
ヘンドリックのボヤきを適当に受け流し、エリーゼとルミナリアがテーブルの上にバンッと叩きつけた分厚い羊皮紙。そこには、何やら難しげな文字がびっしりと書き込まれている。
「ふふっ。私とルミナリア殿下、そしてサンネとミラも合意の上で作成した、『ヘンドリック家・生誕祭に関する特別条約』ですわ」
エリーゼが胸を張り、ルミナリアがドヤ顔で頷く。
「条約の第一項。我が家の妻たちは、自身の誕生日において、日付が変わるまでの二十四時間、旦那様であるヘンドリックを完全に『独占』する権利を有するものとする!」
「いや、俺はまだ誰とも結婚してないんだけどね。妻じゃないよね、君たち」
『既成事実の作り方が強引すぎるだろ。侯爵の次は勝手に妻を名乗るとか、逃げ道がどんどん塞がれていく……』
ヘンドリックの至極真っ当な抗議は、正妻(自称)の圧力の前に一秒で握り潰された。
自分たちの誕生日を想像し、すでに頬を赤らめて妄想の世界に入りかけているエリーゼとルミナリア。
しかし、ふとエリーゼが壁掛けのカレンダーを見て、顔面を蒼白にさせた。
「ま、待ってくださいませ……。今日って、ロッテさんの誕生日ですわよね?」
「なっ!? し、しまった! 条約を今日から発効してしまったせいで、もしロッテが『私も家族だから』と権利を主張したら、旦那様を丸一日奪われることに……!」
自分たちで作ったルールの穴に気づき、ワナワナと震え出す二人。
そこへ、お出かけ用の可愛らしいワンピースに身を包んだロッテが、ブラムと腕を組んでリビングに降りてきた。二人の間には、もはや誰にも入り込めないような、甘く、深く、そして穏やかな信頼の空気が流れている。
「あら。どうかしたんですか、お二人とも怖い顔をして」
ロッテが不思議そうに首を傾げる。
「ろ、ロッテさん! 貴女、まさか今日の誕生日特権を使って、旦那様を……」
エリーゼが恐る恐る尋ねると、ロッテはきょとんとした後、ふふっと上品に笑った。
「ご心配なく。ヘンドリックさんは私にとって、一生頭の上がらない『大切な師匠』です。妻のルールなど使うつもりもありませんし……何より、今日は愛する彼と、二人きりで過ごすと決めていますから」
ロッテは組んでいたブラムの腕に、さらにギュッと身を寄せた。
ブラムもまた、少し照れくさそうに頬を掻きながら、力強く頷く。
「そういうこった。今日は俺が、ロッテを最高にエスコートするって決めてるんでね。おっさんの出る幕はねぇよ」
「ブラム君……ふふっ、楽しみにしてるね」
見つめ合う若い二人の間に流れる、完璧なイチャイチャ空間。
ヘンドリックという男に対して、恋愛感情など一ミリも介在していない純粋な師弟の線引きと、ブラムへの深い愛情の証明であった。
「ロッテ……! なんて素晴らしい弟子なんじゃ! そなたらの愛を、わらわは全力で応援するぞ!」
「ええ、ええ! どうか暗くなるまで、存分に王都のデートを楽しんできてくださいませ!」
ルミナリアとエリーゼが、安堵の涙を流しながら二人を絶賛する。
「ありがとうございます。……でもその前に、ヘンドリックさん」
ロッテはブラムの腕から離れると、ヘンドリックの前に真っ直ぐに立ち、深々と頭を下げた。
「二十二歳になった私に、師匠として……いってらっしゃいの言葉をいただけますか?」
「……ああ」
ヘンドリックは立ち上がり、かつて迷宮で生きる術を教え込んだ愛弟子の頭に、ポンと優しく手を置いた。
「魔法も新しく覚えた隠密も、ブラムとの連携も、今のロッテちゃんなら全部上手くやれるよ。最高の遊撃手として、存分に幸せな二十二歳を楽しんでおいで」
『ブラムのやつ、いい顔するようになったな。絶対泣かせるなよ』
師匠からの温かい祝福を受け、ロッテは花が咲いたような笑顔を向けた。そして、待っていたブラムの手をしっかりと取り、二人は幸せそうに屋敷を出て行った。
「ふぅ……。危ないところじゃった。ロッテが良識ある娘で助かったのう」
「ええ。さて、旦那様。邪魔者もいなくなりましたし、今日は私たちと……」
エリーゼとルミナリアが、再び熱っぽい視線をヘンドリックに向けた、その時である。
「……ん? ちょっと待ってほしいんだけど」
ヘンドリックは、テーブルに置かれた『条約』の羊皮紙を指差した。
「この条約の独占権、『自身の誕生日において』って書いてあるよね?」
「え、ええ。そうですわ」
「今日って、君たちの誕生日だったかな?」
「「…………あ」」
ヘンドリックの口角が、少しだけ吊り上がった。
「ロッテちゃんは権利を放棄した。そして今日は誰の誕生日でもない。……つまり、君たちには俺を独占する法的な権利は一ミリもないってことだよね。いやー、自分たちで作った条約はしっかり遵守しないと。それじゃ、俺は自室で昼寝させてもらうかな」
『自分で作ったルールに縛られるとか、アホなのかな? まあ、俺にとっては好都合だけどね。おやすみなさい』
「だ、旦那様ぁぁぁっ!?」
「待てヘンドリック! 今のは言葉の綾じゃぁぁっ!」
自ら縛り付けたはずのルールのせいで手も足も出なくなり、絶望の悲鳴を上げる自称妻たち。
最強の便利屋は、一番弟子の確かな成長に目を細めつつ、ちゃっかりと自分自身の平穏な休日をも勝ち取り、一目散に自室へと逃亡するのであった。




