第113話:再起動中のおっさんと、白紙のキャンバス
「……完全に伸びておりますわね」
白目を剥いて床に倒伏したヘンドリックを見下ろし、エリーゼがツンと足先で彼を小突いた。まったく反応はない。
二つの強烈な記憶が脳内で激突した結果、彼の意識は完全にシャットダウンしてしまったようだ。
「とりあえず、拘束されているみんなを解放しましょう。ルミナリア殿下、手伝っていただけますか?」
「うむ。しかし、この男の魔法はレベル1のくせに厄介じゃのう……」
二人はヘンドリックの気絶によって徐々に効力を失いつつある土魔法の拘束を解き、泥沼で固まっていたブラムとロッテ、宙吊りにされていたサンネ、石の檻に閉じ込められていたミラを順次救出した。
「ぷはぁっ! 息が詰まるかと思ったぜ……。おっさん、正気に戻ったのか!?」
ブラムが泥を払いながら駆け寄る。
「ええ。殿下の魔道具のおかげで、改竄された記憶の呪いは解けたはずですわ。ただ……少々、脳に負荷がかかりすぎたようで」
エリーゼがヘンドリックの額に手を当てると、異常なほどの高熱を発していた。知恵熱のような状態だ。
「これはいかん。すぐに地上へ連れ帰り、安静にさせるのじゃ! ブラム、サンネ! 担げ!」
「はっ!」
「おう!」
魔力が少し回復した前衛二人が、大急ぎでヘンドリックを担ぎ上げる。
かくして一行は、気絶した最強のおっさんを抱え、今度こそ迷宮を脱出して王都の屋敷へと帰還を果たしたのであった。
◇ ◇ ◇
――それから、丸二日が経過した。
王都にある拠点の屋敷。その一室にある柔らかいベッドの上で、ヘンドリックは静かに目を覚ました。
「ん……うぅ……」
「あっ! 旦那様!? 気がつかれましたか!」
ずっと看病をしていたエリーゼが、弾かれたように椅子から立ち上がる。その声を聞きつけ、ルミナリア、サンネ、ミラ、ロッテ、そしてブラムがドタバタと部屋に雪崩れ込んできた。
「おっさーん! よかったぁ、三日も寝込んでたから心配したんだぜ!」
「主君! お身体の具合はいかがか!?」
「ボス、お腹減ってないか!? アタシの特製肉スープ飲むか!?」
口々に心配の声をかけながら、ベッドを取り囲む仲間たち。
しかし、ヘンドリックは上半身をゆっくりと起こすと、キョトンとした顔で彼らを一人一人見回した。
その瞳には、いつもの飄々としたおっさんの光も、強欲なソロ冒険者の光もない。まるで、生まれたての赤ん坊のような、純真無垢な色が浮かんでいた。
「……あ、あの」
ヘンドリックは、戸惑うような声で口を開いた。
「ここは、どこですか? ……それに、皆さんは誰、ですか……?」
部屋の空気が、ピタリと凍りついた。
「えっ……? だ、旦那様? 冗談はやめてくださいませ。私です、エリーゼですわ」
「エリーゼ、さん……? すみません、まったく覚えがなくて。というか、俺……自分の名前も、思い出せないんです」
ヘンドリックは困ったように眉を下げた。
嘘をついている様子はない。ルミナリアの【万象還元の聖具】は確実に呪いを解いたが、あまりにも複雑に絡み合った記憶を「再構築」するのに時間がかかっており、一時的に記憶の引き出しが完全にロックされている状態なのだ。
正真正銘、真っ白な記憶喪失。
「う、嘘だろ……。あの最強のおっさんが、ただの気の弱いおっさんになっちまった……」
ブラムが頭を抱えてしゃがみ込む。
だが、絶望するブラムやロッテとは対照的に、エリーゼ、ルミナリア、サンネ、ミラの四人の目には、別の光が宿り始めていた。
(……ちょっと待ってくださいませ。今の旦那様の記憶は、真っ白なキャンバス状態……)
(……ということは、わらわが『そなたはわらわの婚約者じゃ』と教え込めば、そのまま信じ込むのではないか?)
(……『主君は私と永遠の愛を誓い合った』と吹き込む絶好の好機!)
(……『ボスはアタシに毎日お肉を貢ぐ係』なんだゾ!)
一時的な記憶喪失。
それはつまり、四人のヒロインにとって「自分に最も都合の良い設定を、純真なおっさんに刷り込むことができる」という、神が与え賜うたボーナスタイムであった。
「……あ、あの。皆さん、急に怖い顔をしてどうしたんですか?」
怯えるヘンドリックを取り囲むように、四人の美女たちがジリジリと距離を詰める。
「いいえ、ヘンドリック様。貴方は少し、お疲れなだけですわ。さあ、私という『最愛の妻』が、手取り足取り、一からすべてを教えて差し上げますわね……」
「ずるいぞエリーゼ! あやつはわらわの許嫁じゃ!」
「抜け駆けは許さん! 主君、私の胸に飛び込んでくるのだ!」
「ボスはアタシのなんだゾー!」
記憶を失い無防備となった便利屋を巡る、仁義なき記憶の捏造&刷り込み合戦が、今ここに勃発しようとしていた。




