第106話:職人の最後の一仕事
静寂が、真層の岩室を支配していた。
だがそれは、平和の訪れではない。極大魔法の絨毯爆撃によって焼き尽くされた戦場に、さらなる絶望が這い寄る前の、不気味な凪だった。
「はぁ、……はぁ、……旦那様……!」
エリーゼが、膝をついたままヘンドリックへ手を伸ばそうとした。だが、その手は力なく地面を掻く。
極大魔法の連射により、彼女たちの魔力は一滴残らず枯渇していた。サンネも、ミラも、最強の弟子であるブラムですら、立ち上がることすらままならない。
そして、その中心で。
ヘンドリックは目、鼻、耳からどろりと血を流し、意識の混濁したまま膝をついていた。七千もの魔力を一気に引き抜かれた負荷は、彼の内部をズタズタに引き裂いていた。
――ギチ、ギチギチッ。
崩れ落ちた岩壁の奥。闇の中から、暗殺者たちのものとは比べ物にならない、悍ましい気配が溢れ出した。
姿を見せたのは、真層のさらに底から這い上がってきたであろう、漆黒の外殻を持つ異形の魔物たち。
彼らは、息絶え絶えに転がっていた暗殺者たちを、「用済み」とばかりにその巨大な顎で噛み砕き、屠っていく。
「……あ、あぁ……」
ルミナリアが、恐怖に声を震わせた。彼女には戦う力がない。王族として、そのようなスキルを習得する機会すら与えられてこなかった。
その時だった。
闇が揺らぎ、一筋の影が滑るように動いた。
「お先に失礼……王女は、我ら『闇商人』がいただく……」
音もなく現れた何者かが、抵抗できないルミナリアの細い腰を抱え、一瞬にして闇へと消え去ろうとした。
「……ま、……て……」
血まみれのおっさんが、震える手で地面を掴んだ。
意識は白濁し、内臓は焼けるように熱い。だが、彼の第六感が、そして「大切なものを守る」という職人の本能が、強制的に魂を揺り起こした。
『……魔力は、もうない。呪面を使えば、今度こそ死ぬ。……なら、これを使うしかないか』
ヘンドリックは、空間拡張の鞄の最奥から、歪な形をした指輪を取り出した。
かつて迷宮の深層で手に入れ、あまりの代償の大きさに「一生使うことはない」と封印していた魔道具――【等価代償の呪環】。
自身の身体機能やスキルの何かを「ランダムに」永久に捧げることで、一時的に限界を超えた能力を得る、悪魔の道具。
「……持っていけ、……俺の、何かを……!」
ガチリ、と指輪がヘンドリックの指に食い込んだ。
瞬間、彼の脳内で何かが砕ける音がした。味覚か、嗅覚か、あるいは大事にしてきたLv1のスキルの一つか。
代償と引き換えに、ヘンドリックの体に無理やり「力」が戻る。
「……離せって、……言ってるんだよ」
ヘンドリックは弾かれたように跳躍し、ルミナリアを連れ去ろうとした影の腕を【オリハルコンの剣】で叩き斬った。
「ぎゃあぁぁっ!?」
悲鳴を上げる影からルミナリアを奪い返し、その小さな体を仲間たちが倒れている中心へと放り投げる。
「……ヘンドリック!?」
ルミナリアが叫ぶ。だが、ヘンドリックは彼女を見なかった。
彼は鞄から、最後の一撃――淡く発光する宝珠を取り出した。
【排他的空間転移の宝珠】。
発動者を中心とした周囲数メートルにいる者を、強制的に指定座標へと転送する。ただし、この魔道具の最大の特徴は「中心(発動者)だけは転送されない」という点にあった。
「……みんな、お先」
ヘンドリックは血に濡れた顔で、少しだけ笑った。
「旦那様! やめて、行かないで……!」
「師匠ぉぉぉぉっ!!」
エリーゼとブラムの絶叫が重なる。
だが、ヘンドリックは迷いなく魔力を――最後の一滴を、宝珠へと叩き込んだ。
カッ、と岩室が白い光に包まれる。
次の瞬間。
エリーゼも、サンネも、ミラも、ロッテも、ブラムも。そしてルミナリアさえも。
その姿は掻き消え、王都の安全な地上へと強制的に送られた。
……残されたのは。
血を流し、膝をつき、代償によって何かを失った、ボロボロのおっさん一人。
そして、獲物を求めて迫り来る、数多の異形の魔物たち。
「……ふぅ。これで、お行儀見習いもしばらくはお休みかな……」
ヘンドリックは重い腕を上げ、折れた剣を構え直した。
迷宮の最奥。仲間を逃がした孤独な英雄の前に、真層の深淵が口を開ける。




