第107話:後払いの代償と、孤独な生還
カッ、と岩室が白い光に包まれ、エリーゼたちと王女の姿が完全に掻き消えた。
【排他的空間転移の宝珠】により、彼女たちは地上の安全な場所へと強制転送されたのだ。
残されたのは、ヘンドリック一人。
……いや、正確にはもう一人、忌々しい影が空間の歪みから姿を現していた。ルミナリアを連れ去ろうとして、ヘンドリックに腕を打ち据えられた闇商人の幹部である。
「おのれ、ヘンドリック……!」
男は痛む腕を押さえながら、憎悪に満ちた目でヘンドリックを睨みつけた。
「せっかく王城に間者を仕込み、苦労して情報を集め、ようやくこの世界樹のアクセス権である王女を手に入れるところだったというのに……! なぜお前のようなしがないおっさんが、我らの完璧な計画をことごとく邪魔をするのだ!」
「知るか。俺はただ、お行儀見習いから逃げたかっただけだ」
ヘンドリックは指に食い込んだ【等価代償の呪環】に視線を落としながら、静かに折れた剣を構え直す。
「チッ……今回は引き下がりましょう。またお会いしましょうか……」
闇商人の男は、周囲から迫り来る大型魔物たちをチラリと見て、不敵に口角を上げた。
「……あんたに、『記憶』が残っていればの話ですがねえ?」
そう言い残し、男は遁甲の術のように闇の中へと完全に溶け込み、気配を絶って逃げ去っていった。
『記憶……? どういう意味だ』
その捨て台詞に一抹の不安を覚えつつも、ヘンドリックには考えている余裕はなかった。獲物が減ったことに激昂した未知の大型魔物たちが、いよいよ彼一人へと一斉に牙を剥き始めたのだ。
「グルルォォォォッ!!」
だが、現在ヘンドリックが装備している【等価代償の呪環】は、彼の持つすべてのスキルを一時的に限界突破させている。もちろん、常時発動型の【魔力自動回復Lv1】も例外ではない。
「……すごいな。使ったそばから魔力が満ちてくる。これなら……!」
呪環によるブーストを受けた魔力回復速度は、異常の一言だった。
「これで終わりだ! 【土魔法】、【火魔法】、【風魔法】……限界複合・極大熱線!!」
ヘンドリックの手から放たれた極太のレーザーのような複合魔法が、岩室を横薙ぎに払う。未知の大型魔物たちは、その圧倒的な火力の前に悲鳴を上げる間もなく、次々と炭化し、崩れ落ちていった。
ものの数分で、岩室の魔物は全滅した。
「……ふぅ」
ヘンドリックは小さく息を吐き、すぐさまブースト状態の【回復Lv1】を自身にかけ、ズタズタになっていた体内と顔面の傷を一瞬で治癒した。
「さて……早く地上に戻らないと、みんながパニックを起こしてるな」
だが、歩き出そうとしたヘンドリックの足を、闇商人の最後の言葉が縛り付けた。
『……あんたに、「記憶」が残っていればの話ですがねえ?』
「……まさか」
ヘンドリックは自分の指に食い込む【等価代償の呪環】を見つめた。
この魔道具の代償は「ランダム」であり、支払われるのは「ブーストが終わる時」だ。視力、聴力、味覚、あるいはスキル。何が奪われるかは、効果が切れるその瞬間までわからないはずだった。
だが、もし闇商人がこの呪環の『真の代償』を知っていて、あんな台詞を吐いたのだとしたら?
「冗談じゃない……俺の記憶が、全部消えるっていうのか……?」
焦燥感が、ヘンドリックの胸を激しく叩いた。
まだ代償は支払われていない。呪環の効果がいつ切れるかもわからない。
「急ごう……!」
ヘンドリックは迷宮の出口へ向かって、全速力で駆け出した。
自分の三十五年間の記憶が。エリーゼたちと過ごした日々が。不本意ながらも手に入れた、あの騒がしくも愛おしい日常が、消えてしまう前に。




