東の対から北の対に移動します
あかね様が三郎様の西の館にお移りになると、北の対を片付けて刀自様とあたしが東の対から移る事になった。
「北の対は台盤所(台所)にも近く、何かと煩瑣な所ではありますが、かぐや姫もいずれお方様となられれば、北の対に入られて家を差配せねばなりませぬ。
なれば短き間とは言え、如何なる所かを見るべきでございます」
あかね様も久我根館の北の対にいて、三郎様の西の館に移った後に困らないよう練習をされていたのだ。
あたしにもできるのだろうか。
「これから国守様やお殿様達がお泊りになられるので、従者の方も沢山おいでになります。
東の対は接待のために空けねばなりませぬ」
東の対は侍所のすぐ傍だったから、巽様の姿も偶然見られたけど、北の対に移ったら、ほとんど接点がなさそうで寂しい。
東の対の塗籠の中に置いてある器物も大部分を北の対に移すので、侍女だけではなく従者も部屋に入って物を移動する。
あたしはその間、刀自様の居間で几帳の陰に座っている。
塗籠の中が片付くと、あたしは塗籠の中に敷物を敷いて一人で座っているように刀自様に指示される。
「かぐや様はお部屋が片付くまで、塗籠の中に一人でおいで下され。すずやまつも片付けのために働かねばなりませぬ。中から掛け金を掛けて、刀自が戻るまでは開けてはなりませぬ」
あたしは塗籠の中に入って掛け金を掛け、言われた通りに敷物に座る。
塗籠は窓の無い納戸のような部屋なので、薄暗くて一人でいるとちょっと怖い。
「すず、まつ、こちらの几帳の垂れを外して北の対に運ぶのじゃ。
巽様、廊下ではなく、暫しこの塗籠の前でお控え下され。
どなたがいらしても塗籠を開けぬ様に」
「畏まりました」
「すぐに戻りますので、頼みましたぞ」
刀自様のお声は大きいので、全部筒抜けに聞こえる。
巽様がこの塗籠の前にいらっしゃるのだ。
部屋の中で刀自様の指示の声が聞こえ、何人もの人が荷物を片付けたり運ぶ音がしていたけど、しばらくするとすっかり静かになった。
あたしは塗籠の入口の戸にくっついて、小さい声で巽様を呼んでみる。
「巽様、そこにいらっしゃいますか?」
「......はい......控えております」
これからあたしが北の対に行ったら、巽様と話せるチャンスは無くなってしまうだろう。
思い切って話そう。
「巽様、誰かが巽様を墨跡と言ったのかもしれませんが、あたしは決して巽様が墨跡だなんて思っていません。
信じてください。
巽様は、刀自様やあたしを命懸けで護ってくれていることも分かっています」
巽様との間に戸があるので照れずに話せるけど、あたしの気持ちが分かってもらえているのか、もどかしい。
あたしは巽様の誤解を解いて、巽様の嬉しそうなお顔が見たいのだ。
「巽様、聞こえていますか?」
「......はい......お聞き致しております」
「あたしは巽様とお会いするのが嬉しいし、お話するのも楽しいのです」
「......はい......」
「だから、あたしが嫌いじゃなかったら、お顔を逸らさず、あたしの顔を見て下さい」
あたしは塗籠の掛け金を外して、少しだけ戸を開ける。
巽様はこちらに背を向けて正座で座っている。
あたしは巽様の着物の袖を掴んで、手前に引いた。
巽様の左手が、袖に引かれてあたしの目の前に来た。
あたしは巽様の手にそっと触れる。
「あたしは頑張っている巽様が好きです。あたしは何もできないけれど、巽様を心から応援しています」
「......」
巽様は何も答えてくれない。
あたしは例の侍女のように、好かれてもいないのに押しかけている迷惑な姫様なんだろうか。
あたしは触れていた手を引いて、塗籠の中に戻ろうとした。
離れようとしたあたしの手は、巽様の手に引き戻されてギュッと握られる。
グルッとあたしの方に向き直った巽様は、真っ直ぐにあたしを見つめた。
真剣な眼差しがあたしに突き刺さる。
視線が強くてたじろぐくらいだ。
「かぐや様、一年だけ待っては頂けませぬか。刀自様にお屋敷を頂けたら、その時は必ず」
これはただ好きってことじゃなくて、結婚を申し込まれているんだよね。
あたしの気持ちだけを言って良いなら、もちろん。
「......はい......喜んで」
巽様の瞳の中にめらめらと炎が立ち上る。
まるで火花が出そうだ。
巽様は目を伏せて、苦しそうに眉根を寄せる。
「わたくしがどれだけ己を押さえるのに苦心しているか、ご存知でしょうか」
あたしは頭を振る。
巽様はあたしに余り興味が無いと思っていたのだ。
「かぐや様、どんなにお慕い致しておることか!」
その時遠くから刀自様の声がする。
帰ってこられた。
巽様はハッと顔を上げると、手を強く握り直し、あたしの右手に一瞬頬を寄せる。
あたしの手の甲に巽様の唇がスッと触れた。
巽様はあたしの手を放し、素早く前を向いて正座をする。
あたしは震える手で塗籠の戸を閉め、掛け金を掛けた。
巽様が触れた手の甲が、火傷をしたように熱い。
「巽様、留守居をご苦労様であった。前の仕事にお戻り下され」
「畏まりました」
巽様が立って行く衣擦れの音がする。
「かぐや様、北の対の用意が出来ましたので、お移り願います」
あたしはパタパタと手で顔を必死であおいでから、塗籠の戸の掛け金を外す。
すずちゃんが戸を開けてくれる。
「おや、かぐや様、お顔が赤くなられていらっしゃいます。中はそれほど蒸しましたでしょうか」
すずちゃんは心配してくれるけれど、みんな、あたしの顔を見ないで欲しい。
「西日が強かったのであろう。困った西日の仕業よ」
刀自様、なぜそんな思わせ振りな言い方をするんでしょうか。




