18 クロスアイド・アンド・ペインレス
次に目が覚めた時、私は自分の部屋のベッドに横たわっていた。
まだ視界の焦点が合わせにくいが、痛みは完全に消えている。
にもかかわらず、ここが自分の部屋だと即座に認識できたのは、ベッドの感触と、この部屋の持つ固有の雰囲気に依る物だった。
これは何も魔法とかいった物ではない。部屋という空間には、どこでもその住人の個性がそのまま滲み出る物なのだ。それは調度品とか内装とかいった形而下のみならず、形而上においても、である。
どうやら、あれから鮎子おねえちゃんと志賀君は、二人がかりで私を家まで運んでくれたらしい。
…鮎子おねえちゃんの車に乗っている間の意識がなかったのは、幸いだったと思う。
子供の頃に、翼を生やしたおねえちゃんにしがみついて空を飛んだ事があるが、おねえちゃんの車に乗るくらいなら、そちらの方がまだましだと思っている。
アレは、下手な遊園地のジェットコースターよりスリルがあると思うが、生憎と私はその方面の嗜好は持ち合わせてはいない。
精神面でよほどタフでもない限り、あの車に乗って正気を保てる者はそういないだろう。
その証拠に、ほら、おそらく一緒に乗ってきたであろう志賀君だって、今ではそこでぐったりとして―――え?
「…しっ、志賀君っ!?」
志賀君は、私のベッドの横に置かれた椅子に腰かけたままで、うたた寝しているみたいだった。そうか。倒れた私の事を心配して、家まで付いてきてくれたのか。
…おねえちゃんの車に乗るという、多大なる困難を乗り越えて。
ふふ。嬉しいな。恋人に心配してもらうという事が、こんなにも嬉しく感じる物だとは思いもよらなかった。
…む?何やらうなされている様だが。
「…ううう…も、勘弁してくださぁい…降ろしてくださぁい…もう二度と…内緒でギター弾きませんから…」
どんな夢を見ているのかは分からないが、寝言とはいえ、彼をして「ギターを弾かない」などと言わせてしまうとは…恐るべし、おねえちゃんの運転。
志賀君の寝顔を見るのは初めてだ。
先日の、あの人形の夢の中で、彼を模した吟遊詩人の少年の寝顔を見た覚えはあるけれど。
あれは、私の単なる妄想に過ぎなかったのだが、こうしてみると、私の妄想力も大したものである。今ここでこうして眠っている彼の寝顔は、私が心の中に描いたものと相違なかったから。
あの夢の中で、私は…。
私…は。
思い出して、思わず赤面してしまった。
あんな淫夢を見てしまうとは、我ながら情けない。
いくら「人形」という異形のカタチに置換していたとはいえ、それが私自身のはしたない願望が生み出した物だった事は間違いないのだろう。
人形…人形、か。
思えば、先日悠久堂であのフランス人形からの視線を感じて以来の私はおかしかった。
あの時、魔力めいた物は感じなかったが、やはり気になる。
真礼――ご本家の従妹に言わせれば、ニンゲンの精神が封じ込められた人形の中には、他のニンゲンの精神に干渉する物もあるそうだ。傀儡師としての才能がある彼女の言う事だ。そちら方面の知識は、私などよりはるかに深い。
明日の放課後にでも、もう一度悠久堂に行って亜弓さんにお願いして、あの人形をよく観察させてもらおうと思う。もしどこか疑わしい所があれば、真礼に電話して意見を求めるのもよいだろう…正直、彼女とはあまり会話したくはない…というよりも会話にならないのだが、この際、背に腹は代えられない。
これまでしでかしてきた自らの奇行の数々は、すべて覚えている。
冷静になってみれば、顔から火が出るくらい恥ずかしいのだが、奇行に及んだ時の自分には、それがごく自然な事にしか思えなかったのだ。
自分でも気づかないうちに、精神に変調をきたしているのだろうか?
考えられるのは…あの人形。あの人形が原因なのではないだろうか。
…いやいや待て待て。では、さっき私の目の中から出てきた「アレ」は何だったのか。
おねえちゃんは…たしか「情欲」とか言っていたな。
そんな名前の異形が存在するのだろうか。
情欲。異性の肉体への欲望。色情とも言う。あるいは物への執着もそう呼ぶ。
一体どんな異形なのかは分からないが、そいつが私の体内に潜んでいたのも事実だ。
…人形なんかより、むしろその「情欲」とやらの方が、よほど私の奇行の原因に近いのではないだろうか?
《そんな事はないんじゃない?》
まただ。またどこかで、知らない少女の声がした。
《やっぱり、あのお人形の方が怪しいんだよ》
…そう、なのだろうか?
《そうだよ、そう。だって、あなたはそのお人形、実際に見たんでしょお?》
う…うむ。それはそうなのだが。
《ほら!じゃあ、そんな得体のしれないのよりも、お人形の方が怪しいよ、絶対》
…そういう物かもしれないな。よし、やはりまずは、あのお人形の方を…。
「ん…あー…文ちゃん先輩。起きたんですかぁ?」
寝ぼけた声で、志賀君が目を擦りながら言った。
「お、志賀君。キミも…あ」
パジャマ姿の自分に気がついて、私は慌てて布団をまとった。
「あー、えっと。うん。志賀君、キミとおねえちゃんが送ってくれたんですね?」
「あ、はい。鮎子先生の車で…」
そこまで言いかけて、ついさっき経験したであろう惨劇の記憶が蘇ったのか、彼は慌てて口元を押さえた。
「…うん。いいよ。トイレは階段降りて左だから」
彼はこくこくと頷くと、そのまま部屋から駆け出して行った。
…彼も、ヘンなトラウマができなければいいけど…
…あれ?さっきまで、私は何を考えていたのだっけ。まあいいか。
しばらくすると、ハンカチで口を拭いながら志賀君が戻ってきた。
「すみません…何だか逆にご迷惑かけちゃいまして」
[うーん…あれは仕方ないよ]
「文ちゃん先輩も…その…先生の車に?」
私は無言で頷いた。
お互い、相手を心からいたわった顔をしていただろうと思う。それは、共通の体験をした者たちにしか分からない物だった。
「それにしても、今日は驚きましたよ。文ちゃん先輩が急に苦しみだしたかと思うと、あんなのが出てくるなんて」
「…ね、志賀君。そいつ、どんなカタチしていたの?」
「実は、僕もよく分からないんです。とにかく動きが速くって…何だか黒くて小さな、線みたいなカタチしてて…」
「線?棒状みたいなのですか?」
「うーん…棒ともちょっと違った様な…何と言うのかな、一本の線を折り曲げて、何かのカタチにしたみたいな…」
「何かのカタチ?どんな?」
「ええっと…上手い例えが見つからないんですけど、そうだなあ…ステンドグラスってあるじゃないですか」
「教会なんかの窓の?」
「ええ、あれです。あのガラスの縁だけとでも言うか、ガラスの部分を抜き取った後みたいなとでも言うか…」
彼の例えは、よく理解できなかった。
「それが、私の目の中から出てきた?」
「はい。すごく小さな奴だったんですけど、動きがやたらと機敏で」
「虫みたいな動きだった?」
「え…ああ、言われてみればそんな印象もありました。でも、あれはどう見ても虫なんかじゃありませんでしたよ」
「どうして?」
「だって、さっきも言った様に、およそ生き物っぽいカタチしてなかったんですから。むしろ…そう、一筆書きした絵みたいでしたよ、あれ」
「絵?」
「そう。絵。それも輪郭線だけの単純な絵みたいなのが、わらわら蠢いていたんです」
「…気持ち悪いですね、それ…」
そんな異形が、よりにもよって、この私の目の中に潜んでいたのだと思うと悍ましい。
「おねえちゃんは、そいつを『情欲』なんて言ってましたね」
「ええ。僕もあの後で鮎子先生に聞いてみたんですけど」
「おねえちゃん、何て言ってました?」
「『それは内緒』だそうです」
…おねえちゃんらしいと言うか。
《気にするほどのことじゃないよ》
また、声がした。うん…まあ、そうかもしれないな。
「そういえば、当の鮎子おねえちゃんは?」
「ああ、さっき帰りましたよ」
「あれ?じゃあ、志賀君は今夜どうするの?」
ウチと彼の家とでは、およそ10キロ以上離れている。おねえちゃんの車に拉致されて…乗ってここまできたのならば、彼の「自由の翼」号は学校の自転車置き場のはずだ。彼はこの後、どうやって家に帰るのだろうか。
はっ…!まさかここにお泊り…?!
またもや赤面してしまった。
彼も、そんな私の反応から、私が何を考えているのか察したらしく、
「い、いえっ!今日は文ちゃん先輩のお母さんの車で送っていただく事になりまして」
「あ、そう。それはよかった。あははははー」
どうにも乾いた笑い声である。
「あ、文ちゃん目が覚めたのね」
私たちの声に気づいたママがやってきた。
「志賀君も、落ち着いたならウチでご飯食べてく?」
「あー、はい。でも…」
「志賀先生には、私から電話しておくから」
先日の袋物細工の教室に行って以来、ママは講師として参加されていた志賀君のお母様を「先生」と呼ぶ様になったみたいだ。お母様の腕前に、よほど敬服したらしい。
「はあ。すみません、じゃあお言葉に甘えさせていただきます」
「本当?よかったあ。今夜は男の子がきてるから、唐揚げとかたくさん作っちゃったの」
「ありがとうございます」
志賀君は素直に頭を下げた。うん、こういう所が彼の長所だと思う。
その日のわが鬼橋家の夕食は、久しぶりに賑やかな物になった。
京都に長期出向している父の不在で、いつもはママと私だけで済ませる食卓が今夜は少し手狭に思えた。テーブルの上に並ぶお皿の数も、一人増えるだけでこんなにも華やかに見えるものなのだろうか。
これが家族の食卓、なのだろうなあ。
ママに勧められるまま、志賀君はご飯を3杯もお代わりして、さすがに少しお腹が苦しそうだった。「流石にもうお腹いっぱいです」という彼を、ママは、
「じゃあ、少しお腹が落ち着いたら、お風呂にも入ってく?」
なんて聞いてきた。
「いやっ!流石にそれは」
何故か顔を真っ赤にして慌てる志賀君。どうせなら汗も流してゆけばいいのに。
「そう…?あーそうか。流石に文ちゃんが入ってるお風呂じゃ、色々と想像しちゃうものね、男の子は、色々と」
色々と…?…あ!
「まっ、ママっ!!」
ママの言った言葉の意味を、今では理解できてしまう私だった。
鮎子おねえちゃん直伝と言うママの淹れた紅茶を飲んだ後、志賀君はママの運転する車に乗って帰っていった。
「文ちゃん先輩。本当にもう大丈夫ですか?」
「あ…うん。心配かけてごめんなさい」
彼の気遣いが嬉しい。
「…ママはちょっと目つむっているから、ほら、キスしちゃってもいいのよ?」
ママが私の耳元で囁いてきた。
「しませんってば!」
「うふふ。冗談冗談。今日は疲れたでしょ?御主様から聞いてるから、文ちゃんはもう寝てていいのよ?ママ、どうせ志賀先生の所で少しお話してきたいし」
そう言い残して、ママは出て行った。
庭先から車のドアを開ける音、続いてエンジンの始動音が聞こえて、その音は次第に遠のいていった。
家には私一人になった。
部屋に戻り、時計を見る。もう9時か。
いつもは10時が私の就寝時間なのだが、流石にもう床に就く事にした。
部屋の明かりを消して、目を閉じる。痛みはもう消えていた。
志賀君から聞いた話では、私の眼球のダメージは、幸いな事に軽微な物だったそうだ。ただ、あのまま放置していたら、あの「情欲」とやらが無理やり這い出してきて、眼球も一緒に押し出されてしまって、間違いなく私は失明していただろうとの事だった。
…考えただけでもぞっとする。
何であんな異形が私の眼の中に…いや、それ以前に、いつの間に侵入していたのか。
…これといって思い当たる事もない。
そもそも、だ。あんな異物が目の中に入ってくれば、その時点で異物感だってあったはず。
まさか…ごく小さな卵か何かの状態で私の体内に侵入して、寄生虫の如く体内の養分を吸収して成長した…?
ほんの数年前に、ニンゲンの体内に卵を産みつけて成長し、やがて腹を食い破って出てくる宇宙怪物の映画があったな。あの映画では、その宇宙生物はその後も成長を続けて、宇宙船内のクルーを次々と襲っていた。
あれは虚構の物語の中での事だったが、考えてみれば、つい先日の倉澤さんの事件だって、元々は「泥口」という異形の細菌か何かの感染がもたらした物だった。
泥口の場合は肉体構造までを変容させてしまう物だったが、この「情欲」とやらは、もしかしたらニンゲンの精神を操るのかもしれない。
そもそも「情欲」という言葉は、分類すればニンゲンの観念のひとつだ。
精神を操る異形。なるほど、それならば納得もゆく。ここ数日の私の奇行…邪で淫乱な、思い出すだけでも恥ずかしくなる私の数々の所業は、こいつに操られていたからはないのだろうか?
…最悪な事に、その所業の全てを私は覚えていた。
志賀君に必要以上のフィジカル・コミュニケーションを迫ったり、真子にハラスメントを働いたり、後輩やクラスメイトたちにも痴態を晒してしまった。
…あああああああああああああああああああ。
過ぎた事とは言え、穴の中に潜り込んで頭を抱えてしまいたい。
その「情欲」とやらが排出された以上、私がまたあの様な痴態を晒す事はもうないだろう。
《あれ?お人形が原因だったんじゃないの?》
あ?ああ、そうだ。そうだったな。
《ダメだなあ。考えがヘンな方向に行っちゃって》
う…うむ。どうも考えがまとまらない。これは反省すべき点だな。
《きっと疲れてるんだよ》
そう…かもしれない。
それよりも、だ。私にはやるべき事がある。迷惑をかけた方々に、心から詫びねばならない。そうしなければ、私自身が納得できないのだ。
自分が納得できない様な謝罪は、相手も受け入れてはくれないだろう。私は自分に妥協するつもりはない。
私は、とある決意をした。これは明日、真子たちの前で示す事にしよう。
そして……志賀君に……は……。
私はいつの間にか眠ってしまったらしい。
気がつくと、どこか知らない部屋にいた。
全てが真っ白な部屋だった。
よくは見えないが、目の前には大きなテーブルらしき物があった。これも真っ白。
ここはどこだ?
私は周囲を見回してみたのだが、まだ焦点が合わせられないのか、物の形を捉えるのがやっとだった。
真っ白な、漠然とした部屋。
どうやら、私がいるのはそんな場所らしかった。
目が見えないのならば、と耳を澄ませてみた。この漠然とした状態から、ほんのわずかでもはっきりした情報が欲しかったのだ。
…何か聞こえる?声…?
そう、これは声だ。それも無数の声。
声は聞こえるのに、その姿は見えない。こんなにも大勢の声なのに。
意識を集中させてみると、その声は次第に大きな物になっていった。
最初は囁き声程度だった。それがどういう訳か、いつの間にか都会の雑踏の真ん中に放り出された様な騒めきになっていた。
その声の各々が、勝手に何か喚き続けているので、とても煩いばかりだ。
しかもその言葉のほとんどが、私の理解できない未知の言語による物らしい。
これではただの雑音と大差ない。
それでも、何か情報を得られないかと、さらに意識を集中させてみる…む?その声の中には、私が理解できる言語で交わされている物もあるみたいだ。
《どうする?こいつ気づいちゃったみたいだよ?》
《それは我々の意図したものではない》
《すでに意識の中枢にまで浸透した》
…何の話だ?我々?
《だが抵抗もある》
《通常のニンゲンよりも抵抗力がある》
《この個体は何者なのか》
《魔力は高い。相応の知識もある》
《我々の力を活かせる素材》
《だが損傷させては意味がない》
《『情欲』は所詮小物。論理的な判断ができない》
《知られてしまった》
《痛恨。失策》
《壊しちゃおうか》
《黙れ『オンナ』。貴君の意見は求めず》
《むー。ひどいなあ》
会話の内容はさっぱり理解できなかったが、無数の「声」の中に一人だけ浮いた様な奴がいるみたいだった。…「オンナ」?たしかにその浮いた存在は、女性の様な口調だった。
《目的は果たせる。問題はない》
《目的って言っても、偶然を利用しただけじゃない。無計画》
《静まれ》
…目的って何だ?
喧々囂々(けんけんごうごう)。あるいは侃々諤々(かんかんがくがく)と、無数の声は、その後も喚き合い議論し合い続けていた。
焦点が合わず、声の主たちの姿を見る事ができないのがもどかしかった。
何の事だか気になるが、私にはやるべき事がある。
焦点が合わず、声の主たちの姿を見る事ができないのがもどかしかった。
何の事だか気になるが、私にはやるべき事がある。
真子たちへの謝罪と。
あのお人形の事をもっと調べなくてはいけない。
そうだ。こんな雑音紛いの「声」などに構っている場合ではないのだ。
私の意識は、次第に薄れていった。




