17 「アメリカの歌」
「真子ちゃん、泣いてましたよ?『かいちょに凌辱されちゃいましたぁ!』って」
放課後。いつもの様に生徒会室にたむろしていると、お茶を入れながら兼子がそう言った。
「そんなつもりはなかったんだけど。軽いスキンシップのつもりだっただけ」
「文さんらしくもない」
「そうかな?」
「はい」
兼子は表情ひとつ変える事なく、自分の淹れたお茶を口にしている。その洗練された優雅な所作ひとつとっても、育ちの良さが窺いしれようというものだ。
ところが当の兼子は、そういった部分を取り立てて強調しているという訳でもなかった。彼女は、あくまでも自然体でいるだけだった。
正直言って、私は彼女のそういう所に嫉妬していない訳ではない。絵に描いた様な「大和撫子」の理想形が自分のすぐ傍に存在しているという事実は、ただでさえコンプレックスの塊である私にとって、心の憶測に少なからぬ負担があった事も否定できなかった。
しかし、それは過去の事。
今の私は、己が内から湧き上がってくる自信に酔いしれていた。
少なくとも、目の前でお茶を淹れてくれているこの優雅な知己に対して、今の私は全くと言ってよいほど劣等感を抱く事が無くなっていたのだ。
彼女を凌駕した、などという安易で愚かしい慢心ではないと思う。鉄ヶ谷兼子は、今も私の信頼すべき補佐役だし、生徒会の職務を抜きにしても、彼女は私の敬愛すべき数少ない友人なのだから。
「…文さん」
「何かしら?」
「文さんは、今のご自身について、何か思う所はありますか?」
まるで私の心の中を見透かした様な質問だった。
「今の…私?どういう事?私、何か変かしら」
「…ご自覚はないみたいですね」
そんな事はない。…自覚?無い訳がない。私は生まれ変わったのだ。もう、かつての初心で愚かしい、子供じみた私ではないのだ。これからはひとりの大人の女性として、愛する人を悦ばせてあげたいし、もちろんそのための知識だってある――という事は、思っていても口に出すつもりはない。
そんな私の顔を見て、兼子はため息をついた。彼女の事だから、あるいは私の心の内まで読み抜いているのかもしれなかったが。
…何となく気まずい雰囲気になった。会話が続かない。
元々、私も兼子も、他の女子たちの様に、他愛ない話題で盛り上がれるほど口数が多いという訳ではない。二人の間の会話といえば、生徒会の業務に関する極めて事務的な内容や学業について事の方が多かった。それだけで十分。
私は兼子を信頼していたし、得難い友人とさえ思っている。最低限の会話だけでも、気持ちは伝わっていると信じていた。
ところが、である。今日はどこか雰囲気が…というよりも場の空気が、いつもとは異なっていた。
昼休みの私の暴挙(?)に恐れを為してしまったという、書記の真子の姿がここにないというのも、その原因なのかもしれないのだが。
口数の少ない私たちの間で、あれこれと賑やかしいのが水嶋真子という後輩だった。
生徒会のメンバーの中で、とりわけ私と近しいはずだった兼子と真子との距離が、何故か遠のいた気がしてしまう。
これには、少しだけ不安を覚えた。
その時、午後5時を告げるチャイムが鳴った。
まるでそれに合わせるかのように、生徒会室の扉が開いた。
「お待たせしました。文ちゃん先輩」
そこに立っていたのは、言うまでもなく志賀君だった。
いつもの様に、背中にはギター・ケースを背負っている。今日も私の「日課」に付き合ってくれるのだ。
現金な物で、彼の顔を見ただけで、私の心の片隅にあった不安はどこかへ吹き飛んでしまったみたいだった。
「あ、志賀くぅん!」
私の口から飛び出したのは、飼い主に甘える子猫みたいな甘ったるい声だった。
それだけ彼が待ち遠しかったのと、この部屋に漂う、どこか居心地の悪い気配から抜け出したかったのだろう。そんな気持ちが、こんな甘えた声色になってしまったのだ。
兼子がまたため息をついているのが見えたが、この際それは無視。気づかなかったふりをしておこうか。
「…何か、あったんですか?」
流石は志賀君。即座に空気を読んでしまったか。…成長したなあ。
つい先日までは、彼も孤高を気取った朴念仁だったのにな。
呉下の阿蒙にあらず。男子、三日会わざれば括目してみよ、ですか。
「…何でもありませんよ。さあ、私の事など気にせずに、文さんとのお時間をご甘受してくださいな」
兼子はそう言うと、自分の荷物を鞄に入れて帰り支度をはじめた。
普通、こういった言い方をされると、どこか邪険にされた様な気にもなりがちだが、そこは兼子、それがまったく嫌味には聞こえない所が凄い。
純粋に相手を気遣った様にしか受け取れないのは、これが「人徳」と言う物なのか。
…私には欠落した部分だ。
ともあれ、ここは彼女の「厚意」に甘えさせていただこう。
私は志賀君の腕に抱きついた。
「さあ、兼子もああ言ってくれている事ですし、今日も見回り行きましょ」
「…はあ」
志賀君は気の抜けた様な相槌を打ちながら兼子の方を見ていたが、兼子はそれに気づいていないのか、ただ黙々と帰り支度をしているだけだった。
私たちは、いつものコースを順に見回った。
その間も、私はずっと彼の腕に寄り添っていた。
廊下をすれ違う生徒たちが、一様に驚いたような顔になっているのがおかしい。
「ふふ」
「…何が面白いんです?」と志賀君。
「うぅん。みんなが私たちを見てるなーって」
「そりゃ、思わず見ちゃうでしょうよ。まさか、文ちゃん先輩がこんな事するなんて、誰も予想なんてしなかったんじゃないですか」
「ふふふ。そうかもね」
彼の言う通りだ。
私だって、ただ堅苦しいだけの女じゃない。この際、こういった意外性をアピールするのもいいだろう。そもそも、校内では、私たちはとっくに後任のカップルなのだから。
…とは言えども。
至福のひと時に浸りつつも、心の中では一抹の不安も芽ばえはじめていた。
…どうも、志賀君の態度がおかしい。いつもとは違う気がする。
さっきから積極的に話しかけているのは、私の方だ。
いつもならば、彼もその会話に乗ってきて、彼なりの意見を返してくれたりもして会話も弾むというのに。
今日の彼は、どこか淡白と言うか、積極性に欠けている気がする。
私が話しかけてもうわの空で、ただ「そうですね」とか「なるほど」としか返事をしてくれないのはいただけない。
…これが恋人同士の会話か?
もしかして、彼はもう、私に飽きてしまったのだろうか。
ああそうか、先日のケンカがいけなかったのだろうか。
あれから、私なりに反省して、彼へのアピールもしてきた…とは思う。
しかし考えてみれば、あのケンカも悠久堂での一件以来、曖昧なままになってしまっていたかもしれない。
…彼はまだ怒っている?…どうしようどうしよう。
一度芽ばえてしまった不安は、瞬く間に私の体内で増殖していく。
思わず、私は寄り添う腕に力を込めた。
それでも、彼は相変わらず黙々と歩いているだけだった。
彼は…志賀君は、何を考えているのだろう。
朝の校内清掃もそうだったが、こうして私の「日課」に付き合ってくれている以上、彼が私と距離を取ろうとしているとは思えない。
それなのに…それならば何故、キミはこんなにも淡白なのだ?
いつしか、見回りのコースも、ゴールである屋上にたどり着いていた。
やはり、彼と一緒ならば、見回りの時間も短く感じるという事か。
いつもならば、ここで鮎子おねえちゃんが待っていて、必ず数曲演奏してゆくのだが。
今日、ここに鮎子おねえちゃんの姿はなかった。
「…あれ?鮎子おねえちゃん…は?」
「ああ、鮎子先生なら、今日は午後から出張だそうです。今日はこれないか、あるいはかなり遅れるかもって、昼休みに言われたんです」
…そうなのか。じゃあ、何でおねえちゃんは、私にはそれを言わなかったのだろう?
もっとも実際に演奏するのは志賀君と鮎子おねえちゃんで、私はただの聴き手に過ぎず、そう言った意味では、それも道理なのだが…少し寂しい気もする。
やはり、三人の中では、私だけが置いてけぼり…なのだろうか。
…待てよ?ひとつ気になる事があった。
演奏する予定もないのに何故、彼は今日もギターを持ってきたのだろうか。
…まあいい。今日は二人きりなのだ。これはむしろ、チャンスと言っていい。
いっその事、今日は私から迫ってしまおうか。
くすくす。くすくすくす。
「…さて、と。これで今日の校内見回りも終わりですよね」
「ええ。…おねえちゃんはいないけど、少しここで休んでゆきましょうか」
「…。そうですね」
気のない返事の志賀君。…せっかく二人きりになれたのに、嬉しくないのかな。
私たちは屋上の片隅に、二人並んで腰を下ろした。
志賀君の広い肩にもたれかかる。目をつむって意識を集中すると、彼の心臓の鼓動が聞こえてくる。こういう時は、人並み外れた鬼橋 文の聴力に感謝したい。
規則正しくリズムを刻む彼の心臓の音を聞いていると、私の身体の中が次第に熱を帯びてくるのが分かる。その熱が意識を高揚させてゆく。
体内の熱は、やがて下腹部に集中してきて…うふ…うふふふふ…
「…何だか、目が潤んでますよ?熱でもあるんですか?」
「…そう…?そう見える?」
「大丈夫ですか?」
「うん。キミと一緒なら大丈夫」
仔猫がじゃれつく様に、私は彼の腕に頬ずりした。
「……」
私がこれだけアピールしているのに、彼の反応は淡白なままだった。
…やはり、何かおかしい。それならば、もっと積極的に出るしかないか。
「…ふぅ。やっぱり熱があるのかな。熱くなってきちゃった」
私は制服の上着を脱ぎかけたのだが、それは志賀君に制止されてしまった。
「まだ2月です。いくら何でも、本当に風邪ひいちゃいますよ」
そう言いながら、彼は優しく私の上着を掛け直してくれた。
「あ…うん」
「…文ちゃん先輩」
「え…あ、はい。なぁに?」
「今日は鮎子先生がいないけど、いつもみたいにギター弾いていいですか?」
「え…?あ、ああ、いいけれど…」
…こんな時までギター?私は内心、またもや呆れてしまったのだが。
「…今日は鮎子先生じゃなくて、僕自身が歌いますね」
え…?志賀君の…歌?
それは、純粋に興味があった。
元々、私は彼の声も好きだった。彼の声が、鼓膜を通って脳に染み込んでくる喜びは他に代え難い物だ。
いつもなら、彼はもっぱらギターに集中してばかりで、歌の方は鮎子おねえちゃんに任せきりだった。たしかに発音も音程も完璧な鮎子おねえちゃんがいれば歌はいいやと思ってしまっても仕方ないとは思うのだが、今日はどういった心境の変化なのだろう。
「聴いてくれますか?」
「あ、うん。ぜひ聴かせて」
彼はギター・ケースから、愛用のギターを取り出して調律をはじめた。
以前、真子が言っていたが、ギター弾きの彼氏が彼女のために歌うという行為は、これはもう、最大級の愛情表現と言ってもいいそうだ。
なるほど。今になって、それがよく理解できた。だってそうだろう?愛する男が自らの声で、自分の為に愛の旋律を囁いてくれるのだ。これほどストレートな表現があろうか。
古今東西、数多の物語などではとっくに使い古されたチープな表現なのかもしれないが、実際に目の前で恋人にされるとなると、やはり感動してしまう。
これまで、私はには縁のなかったシチュエーションだったが、それは志賀君も同じだろう。
ふふ。さあ志賀君。キミはどんなラブソングを聴かせてくれるのかしら?
やがて弦の調律を終えた志賀君は、繊細な指の動きで静かにコードを爪弾きはじめた。
それは、私の予想に反して、ラブソングではなかった。
まるでピアノの様な旋律の短いイントロが終わると、彼は静かに歌いはじめた。
「メニーズ・ザ・タイム・アイヴ・ビーン・ミステイクン、アンド・メニー・タイムズ・コンフューズド」
(何度も打ちのめされてきて、何度も自分を見失った)
「イエス・アンド・アイヴ・オフン・フェルト・フォーシェイクン、アンド・サートゥンリー・ミスユースド」
(それに時々孤独を感じるし、いつだって苦しい事ばかりさ)
アメリカで十年間を過ごしてきた鮎子おねえちゃんとは比べるべくもない、たどたどしい発音。メロディーだって音程が不安定だったが、かろうじて歌詞の意味を把握する事はできた。
「オー・バット・アイム・オールライト、アイム・オールライト、アイム・ジャスト・ウィリー・トゥ・マイ・ボーンズ」
(でも僕は大丈夫。大丈夫だよ。疲れ果ててしまっただけ)
この曲は知らなかったが、どこかで聴いた様な、懐かしさを覚えるメロディだった。あ、そうか。これ、たしかバッハの「マタイ受難曲」じゃないか。
「スティル・ユー・ドント・エクスペクト・トゥ・ビー・ブライト・アンド・ボーン・ヴィヴァント、ソー・ファー・アウェイ・フロム・ホーム、ソー・ファー・アウェイ・フロム・ホーム」
(明るく陽気に振舞うなんてまだできないよ。家路ははるか遠い。ずっと遠いんだ)
1コーラス目が終わった。
歌も、伴奏のギターも、ただ淡々と流れて行くだけ。何とシンプルな曲なのか。
それでいて、何故だろう、下手なラブソングよりも、ずっと私の心の中に染み渡ってくる。
美しい、と思った。
歌詞も。メロディも。いや、それ以上に、志賀君が私の前で、私だけの為に歌ってくれているその姿が、とても美しく、そして愛おしく思えたのだ。
目頭が熱くなった。涙があふれてくる。
…感動?私は感動している?
私は極力、涙は流さないと誓っていた。それは幼い頃、実の姉を亡くして以来の誓いだったが、志賀君と出会ってからは、それも脆い物になってしまった気がする。
でも。今は泣いてもいいのだと思う。
そう。これは流していい涙なのだ。
私に対して歌を捧げてくれた志賀君への、最大級の返礼。この涙が。そうだ、この涙こそが、彼の歌に対する私の最大の感想なのだ。
…ついさっきまで彼に抱いていた不安、それに邪で淫らな劣情が、涙と共に身体の中から洗い流されて行く様な気がした。
歌は2コーラス目、そして中間部分のブリッジ?とでも言うのか、独立したメロディのパートを過ぎて、1・2コーラス目と同じメロディの3コーラス目になっていた。
「オー・イッツ・オールライト、イッツ・オールライト、イッツ・オールライト、ユー・キャント・ビー・フォーエヴァー・ブレスド」
(でも心配いらない。それでいいんだ。神の祝福を待つだけじゃいけないんだ)
「スティル・トゥモローズ・ゴーイング・トゥ・ビー・アナザー・ワーキング・デイ、アンド・アイム・トライング・トゥ・ゲット・サム・レスト、ザッツ・オール・アイム・トライング・トゥ・ゲット・サム・レスト」
(明日からをまた精いっぱい生きて、その中で安らぎを求めてゆく。安らぎを求め続けてゆくんだ)
最後のコードがじゃらん…と余韻を残して、演奏が終わった。
「…いい曲…ですね。それもポール=サイモン氏の曲?」
「ええ。『アメリカの歌』っていう曲なんです…文ちゃん先輩、もしかして泣いてます?」
「…うん…自然に涙が出てきちゃって…あ!」
…ズキン!
突然、目の奥に激痛が走った。眼球の奥に異物感があって、「それ」が私の眼球を無理やり押し出そうとでもしているみたいだった。
い…痛い!痛い痛い!!痛い!痛い!!痛い痛い痛い!!!
私は両手で瞼を押さえつけた。だってこのままじゃ、私の目が飛び出してしまうかもしれない。
「あ…文ちゃん先輩!?」
突然苦しみだした私に、彼も動揺しているみたいだった。
「痛い!痛いよ志賀君!!助けて!助けて」
「どっ、どうしたんですか!?」
「…目が、目が痛い!痛いの!!」
私の目の奥から、何かが這い出そうとしている。「そいつ」は不器用な動きで私の眼窩の中を無茶苦茶な動きで暴れまわっている。「そいつ」が暴れまわるたびに、眼窩の内側に激痛が走った。いったい、どんな歪なカタチをしているのだろうか。
「え…目…ゴミでも入ったとか…まさか虫?いやでもまだ2月…」
「ち…違う…あ、痛い!やだ、目が‥」
必死で瞼を押さえた掌に、何かの感触があった。
ぬるぬるしていて、わらわらと蠢く小さな何か。
歪な「そいつ」は、ついに私の瞼の隙間から抜け出してきたのだ。しかし、完全には抜け出せないみたいだった。「そいつ」が何とか這い出そうともがくたびに激痛が走る。
不用意に「そいつ」をつまんで引きずり出そうとすれば、私の眼球も一緒に飛び出してしまいかねない。とりあえず、私はこの激痛に耐えながら、瞼を押さえつけるしかないのだ。
「ぅ…うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ…!!!!」
自分でも驚くほど大きな絶叫だった。
「あっ、鮎子先生!!鮎子先生ったら!!どこにいるんですか!?いるんでしょう!?」
志賀君が突然、鮎子おねえちゃんの名前を叫んだ。
え…どうして?鮎子おねえちゃんは今日、校内にいないはずじゃ…
「あーもう。うるさいなあ」
唐突に、おねえちゃんの声が聞こえた。え…ええっ…?
「鮎子先生!文ちゃん先輩が…!!」
「うん。分かってるよ。…ふーん。やっぱりそうかあ」
鮎子おねえちゃんの声は、いつもと同じ口調だった。
「そんな落ち着いてないで、早く、早く文ちゃん先輩を!!」
「分かってるったら。…文ちゃん、痛い?」
「うん!痛い、痛いよおねえちゃん!助けて!!」
「はいはーい。痛みに苦しむ生徒さんがいたら、応急処置するのが養護の先生のお仕事だもんね。はーい。ちょーっとがまんしましょーね?」
…おねえちゃん。もしかして、この状況を面白がってる?
御主様にお仕えする「鬼橋 文」としてはあるまじき事だが、私はこの時、一瞬殺意に近い感情すら覚えてしまった。
「…ごめんなさい、文ちゃん。苦しかったね。本当にごめんなさい」
今までとは全く違った真面目な声で、おねえちゃんが謝ってきた。
「え…?それってどういう…」
瞼を押さえたままの掌に、とても懐かしい、暖かくて柔らかい感触があった。
それは子供の頃から何度も触れた事のある、鮎子おねえちゃんの掌の感触だった。
「あ…?」
おねえちゃんが触れたと同時に、痛みがすうっ…と消えていった。
あの異物感もない。
「うん。もう大丈夫だよ」
おねえちゃんの優しい声。
「でも、しばらくは目を開けちゃダメ。今、傷を治してるから」
私の瞼に触れたままのおねえちゃんの掌から、何だか温かな流れが伝わってくる。
「何か」が暴れ回ってくれたせいで、おそらく私の目の中は、きっと傷だらけになっているのだろう。
「あ…鮎子先生…?その…指でつまんでいる黒いのは…何ですか?」
志賀君が恐る恐る尋ねている。ああそうか、おねえちゃんは、どうやら右手で私の目を治療してくれているみたいだから、私の目の中にいた「何か」は、左手でつまんでいるのだろうか。
「あー、これ?ふむふむ。これは多分…『情欲』かな?」
「じょう…よく?何か、びちびちと動いてるんですけど…生き物ですか、それ?」
「うーん、どちらかといえば生き物じゃない方、かなあ」
「…およそ生き物には見えないんですけど…うわ、暴れてますよ」
…その「情欲」とやらは、いったいどんな不気味な姿をしているのか。
…考えたくもなかった。目を開けなくて済むのが幸いだと思う。
「そうねえ…治療の邪魔だから、ないないしちゃいましょ」
「…あ、崩れちゃった」
「志賀君。コレ、その辺に捨ててきて」
「ええっ!?こ…こんなのを…ですかぁ…?」
「もう害はないから大丈夫だって。あ、でもね、一応ビニール袋に入れて、可燃物の方に出した方がいいと思うよ」
「…は…はぁ…」
私の目の中で暴れてた奴は、燃えるゴミ扱いなのか。
志賀君の足音が、次第に遠のいていった。
「ごめんね、文ちゃん」
二人きりになると、おねえちゃんはもう一度、優しい声で言った。
しばらくして、志賀君が戻ってきたみたいだった。
「はい。おつかれさま」
「…ちゃんと、可燃物の方に分別しときましたから」
「うむ。ごくろーごくろー」
「で、文ちゃん先輩は大丈夫なんですか?」
「うん。もう、ぐっちゃんぐっちゃんじゃなくなった」
…私の目がどんな惨状だったのか、想像したくもなかった。
「今日は、私が車で文ちゃんの家まで送るけど、志賀君どーする?」
「ええっ!?鮎子先生って、車を運転できたんですか!?」
「当たり前じゃない。群馬で生活する以上、自家用車は必須でしょ?」
「いやその…それはそうですけど、免許とか…」
「大学時代に、ちゃーんと教習所通って取ったもん」
「…また戸籍偽造ですか」
「ふふ。さぁ?」
「さぁって…それに鮎子先生なら翼出して、ささーっと飛んでった方が…」
「あれ、けっこう疲れるからやだ。車の方がずっと楽だもん」
「ええっ!そうだったんですか!?」
「うん」
二人の、どこか間の抜けたようなやりとりが、とても心地よかった。
ややあって、私の身体は誰かに抱え上げられた。
うん。匂いで分かる。これ、志賀君の匂いだ。
とっても大好きな、志賀君の匂い。
彼の匂いに包まれながら、私の意識は遠のいていった。
これだけの事があったのだ。自分で感じた以上の負荷もあったのだろう。
心地よい疲労感に包まれながら、私は眠りについていった…
あ…そういえば、これって「お姫様だっこ」って奴…じゃ………?




