16 鬼橋会長、ご乱心!?
私は、とてもいい気分だった。
ついさっきまでの私、些末な事を延々と悩んでいた小娘の私が、とても愚かしく思える。
そうだ。私は生まれ変わったのだ。しかし、それは大した事でもない。
よくあるではないか。ほんの些細な事が、悩みの解決につながった例などは。
しかしその些細な事が、今の私に至上の喜びをもたらしたのも事実だった。
シラクサ王から依頼された、金の王冠の純度を溶かさずに測る方法を思いついた時のアルキメデスではないが、「ユリーカ!」と叫びたいくらいの心境だった。
ふふ。流石に裸で外に飛び出したりはしないけれど。そのくらいの羞恥心は持ち合わせているつもりだ。
私が生まれたままの姿を晒せるのは志賀君だけだ。これは断言できる。
ああ、今朝会ったばかりなのに、彼に会いたくて堪らない。
今の私なら、彼を悦ばす方法を、いくらでも思いつく事ができる。
残念ながら実際の経験はまだないが、「知識」だけはある。
男を悦ばす方法ならば、そこいらの娼婦以上の知識を、今の私は「持っている」。
きっかけは…そう、きっと今朝の真子の悪戯だったのだろう。
彼女のちょっとした悪戯心が、私の中にあった「知識」のスイッチとなった。
「私」が生まれ変わった瞬間だった。
その事実に気づいた時、私は最初、これも歴代の「鬼橋 文」が培ってきた「知識」のひとつなのだろうかと思った。
しかし、それはきっと違うのだろう。
私を含めて、「御初様」以来の「鬼橋 文」は、そういった方面、すなわち性的な経験や知識を必要としてはこなかった。
「鬼橋 文は、御主様のためだけに生き、尽くし、そして死んでゆく」
それを人生の第一義として、そのために必要な知識と能力を排除してきたのが、「鬼橋 文」という存在なのだ。
性的な知識など、魔法を扱う上で必要な、ニンゲンの肉体の基本的構造を理解すれば、それ以上の物は必要としなかった。
そんな「鬼橋 文」のささやかな人生には、「男を悦ばせる技術」など無用だったはずだ。
むしろ、「お役目」には邪魔となるだけの物だったろう。
――では、この「知識」はいったい何処から?――という疑問はわかなかった。
そんな事はどうでもいい。
だって、いまや「知識」が私の中に介在するのは、紛れもない事実なのだから。
大事なのはこの「知識」を用いて恋人を愛したい、悦ばせたいという、「女」ならば誰もが持つ、ごく自然な欲求を満たす事だけ…なのだから。
…くす。志賀君は、いったいどんな顔で私を求めてくれるのだろうか。
その時の彼の表情を想像するだけで胸が高鳴る。
…ああ、私はこんなにも志賀君の事を愛しているのだ。
この恋と「御主様」に対するお役目との間で、頭を抱えた日もあった。
しかし、それは過去の事、ましてやその「御主様」が、この恋を後押ししてくれているのだ。もはや何の支障もない。
後は、私の「行動」だけだ。
以前の私は、その「行動」に対して躊躇があった。
…何と初心で純情で。そして何と愚かしかったのか。
待たせてごめんね、志賀君。
あんな愚かな小娘はもういない。
これからは、キミを悦ばせてあげるだけの女になろう。
くすくす。くすくすくす。
心ひそかにその時の事を想像するだけでも、私は期待と愉悦に震えるのだった。
そんな思いが、黙っていても表情に滲み出てしまうのだろう。
心の奥底、心の深淵に押し込みきれないほどの強い感情は、きっかけがあれば表層に噴き出してしまうものなのだ。
授業中、クラスの男子はおろか担任教諭の高城先生までもが、私に熱い視線を向けてくるのを感じた。こんな事は今までなかったのだが、こうしてみると、これがなかなかに心地よい物だ。
「視線を集める」というこの快感。
この悦楽も、これまでの私の知らなかった物だった。
それまで、私に向けられた視線に含まれていたのは「畏怖」とか「敬遠」といった負の感情ばかりだった…と思う。
時には「羨望」「敬意」あるいは「畏敬」といった物もあったかもしれないが、それは少なくとも「女」としての対象ではなかったのだろう。
しかし、今私に向けられている無数の視線は、これらとは全く異なる物だった。
「熱い視線」とはよく言った物だ。
私に向けられてくる無数の視線は、それぞれ熱量を持っているのかもしれない。
その熱量が私の中に蓄積されて、私の体内を熱くしてゆく。
吸熱反応と発熱反応。エネルギー保存の法則…か。
男の視線の持つ熱は、女の感情…そして肉体をも熱くさせる。
それをニンゲンは、「愛」などという言葉で表現するのだろうか。
時折、私と目が合った男子は、慌てて目線を逸らしてしまう。その仕草がおかしくて、私は微笑んでしまう。するとその笑顔を見た他の男子も慌てて目線を逸らす。
男子たちの放つ悶々とした熱量は、女子たちにも少なからぬ影響を与えているかの様だった。彼女たちの顔が一様に赤いのは、教室の暖房のせいだけではあるまい。
今や、この教室全体にまで、その淫靡な熱気が波及しているかの様だった。
この奇妙な熱量が対流してゆくその中心部分、「核」に位置しているのがこの私。
私は何だかおかしくなってしまい、吹き出しそうになってしまった。
そんな私を見て、高城先生までもが戸惑っているかのようだった。
もちろん。そう、もちろん私からは何のアピールもしない。それは野暮というものだ。
「…ふぅ」
私が何気なく漏らしたため息にさえ、教室中に動揺が走るのを感じられた。
私からは何もしないが、教室内には奇妙な緊張感さえ漂っていたみたいだった。
その緊張感は、授業の終わりを告げるチャイムによって霧消した。
明らかに、「空気」が変わった。
クラスメイトたちは、きっと「解放された」と思っている事だろう。
高城先生は挨拶を済ませると、そそくさと教室を去ってしまった。
昼休み。昼食を済ませた私は、教室を出て廊下を歩いていた。
深い意味はない。気分転換の散歩という奴だ。これは以前からの私の日課だったのだが、同時に校内の視察も兼ねていた。生徒会長として、校内で起こりうるトラブルや、施設などの修繕の必要性をいち早く察知し、これに対処すべきだと考えていたからだ。
気分転換の時間にまで職務を結びつけてしまうのは、私の悪癖だとは思う。
とはいえども、これはこれで、時折思いがけない展開にも遭遇できる楽しさもあった。
先日も、この日課で廊下を歩いていた時に、志賀君と出くわした事があった。
あの時、彼はどうやらパン屋の出張販売時間に出遅れて、パンを買い損ねていたらしい。
たった一個のパンを手にして、不満を露わにしていた彼が不憫で、と同時に滑稽にも思えて、私は自分のおにぎりを分けて差し上げたのだった。
もっとも、そのおにぎりは、元々彼にあげるつもりではあったのだが、よもやあの場所で彼に会えるとは思わなかったのだ。
私と彼の間の距離が、それまでよりずっと近くなったのもあの時からだったな。
そういう、ささやかではあるが予期せぬ出来事が、日常に新鮮味を与えてくれるのだ。
「…あっ、あのっ、鬼橋会長?」
む?私の後ろで声がした。
振り向くと、そこには見知った顔があった。
ええと…彼はたしか志賀君の友人で…名前は何と言ったかな。ああそうか、森竹君と言ったか。
…ふふふ。ほぅら。また何か予期せぬ出来事が、向こうからやってきたではないか。
「あら。君はたしか志賀君の…」
「はっ、はいっ!義治の大親友、森竹修二ですっ」
森竹氏は、どういう訳か妙に緊張しているみたいだった。その強張った顔がおかしくて、私はちょっとからかいたくなってしまった。
「うふ。私に何か御用かしら?」
普段の私なら、志賀君以外の誰にも絶対に見せない様な笑顔で応えてみる。今日の私は気分がよかったので、これはサービスのつもりだった。
さあ、君はいったいどんな反応をみせてくれるのかしら?
「…!」
…ほう。さらに畏まってしまったみたい。でも、それはいつもの私に対する緊張とは、また違った印象を受けた。
「…どうしたのぉ?」
蠱惑めいた仕草で、首を傾げてみる。やや甘えた声音で質問してみた。
「…あのっ!あのっ!あのっ!」
うふふ。森竹氏、困ってる困ってる。彼の動揺が、手に取る様に伝わってきた。
彼の手元を見ると…あら?
「…君の手にしているハンカチ、もしかして私の?」
「あ!は、はいっ!さっき、会長が落とされましたので…」
「あら嬉しい。わざわざ拾ってくれたのぉ?」
「とっ、当然の事でありますっ!」
彼の差し出したハンカチを受け取ると、私はそのまま彼の手を取った。
「ふふ。ありがとう。これはほんのお礼」
私は彼の手の甲に、軽くキスをしてあげた。
「ふ…ふわぁぁぁぁ…!?」
思わず身体をのけぞらせてしまう森竹氏。意外に純情ねえ。
「そんなに驚かなくてもいいの」
私は、彼の顔に自分の顔を寄せて、囁く様に言った。
「でもごめんなさいね?キミにはここまでしか、してあげられないの」
「…は?」
「私が唇にキスしてあげられるのは、志賀君だけ、だもの」
呆然とする森竹氏。もしかしたら、私の言った意味が理解できていないのかもしれない。
彼の唇に人差し指を当てて、そのまますぅ…っと下に撫で下ろす。
指先は彼の胸元、そして腹部を通り過ぎて、下半身一歩手前で止めた。
「…もちろん体も、ね?私の全ては志賀君だけの物なの」
私は、呆然としたままの彼を置き去りに、その場を離れたのだった。
やがて廊下の角を曲がった辺りで、後ろから彼の声で、
「…よぉしはるぅ~~!!」
なんて絶叫が聞こえたけれど。
トイレで用を済ませて再び廊下に出ると、もう一人、顔見知りの後輩に出会った。
彼女は志賀君と同じ美術部の1年生、塚村いのり嬢。なかなか個性的な少女だ。
…ふむ?そういえば彼女には、先の美術部の部展での一件があったな。
倉澤さんの事件の後、志賀君の作品を拝見しに赴いた駅ビルの画廊で、彼と一緒に受付を担当していたのが彼女だった。
その時、彼女は彼と私が二人きりになれる様に、ちょっと配慮してくれたのだが。
ぐっと前に突き出した彼女の右拳は、親指が人差し指と中指の間に挟まっていた。
それが何を意味するかくらいは、当時の私も薄ぼんやりと知っていた。
…今は、その意味を完全に理解している。…何故かは分からないが、私の脳内にある「知識」の中にも、いつの間にかそれはインプットされていたのだった。
しかしあの時の私は、まだ知識の乏しい小娘だった。おそらくは軽い冗談のつもりの塚村嬢のあの仕草に、完全に動揺してしまったのだ…情けない事に。
あの時の彼女の気配りには感謝しているが、あの挑発めいた冗談には、ふと、少しくらい反撃してみたくもなった。「今の私」になら、それも可能だと思う。
さて、どんな方法で仕掛けてみようか。
「これは会長殿」
そんな私の思惑をよそに、表情ひとつ変える事無く、塚村嬢は挨拶してきた。
「あら塚村さん。御機嫌よう」
まずは軽い会釈で応えてみる。
「…ふむ?」
途端に怪訝そうな顔になる塚村嬢。しまった。初手を誤ったかな?
「どうしたの?」
「…いつもの会長殿とは思えぬ口調」
「何か変かしら?」
「はっきり言って、変。ゆにーく。別キャラ」
「…そ…そうかしら?ね、それって、たとえばどんな所かな?」
「普段の会長殿は、もっと質実剛健一筋。そんな媚びた様な所作はらしくない」
「そ…そう?そんなに変かな?」
「いかなる心境の変化でありましょうや?」
「そ…そういう気分なの、今日は」
…どうも、彼女の前だと調子が狂ってしまうな。よし、こうなれば、少し攻勢に出てみようかな。
私は、ついさっき森竹氏にしてみせた様に、彼女の唇に人差し指を当てて、そのまま下に撫で下ろしてみた。
「うふふ。先輩にそういう事を言う悪い後輩さんには、ちょっとお仕置きしちゃおうかな?」
彼女の腹部の上で、指先で優しく「の」の字を書いてみた。
「うふふ。こうすると気持ちいいでしょお…ねぇ?」
これも、いつの間にか脳内にインプットされていた知識だった。
その「知識」の中には、男女のみならず、古代ギリシャの詩人サッフォーの様な、女性同士の愛の営みについての描写もあったのだった。
流石の塚村嬢も、これには少しくらい悶絶して動揺するかと思えば。
…彼女の表情は、相変わらず淡々としたままだった。
…不感症なのかな?
「申し訳ない会長殿。私は、男同士の愛の営みにしか関心がない」
…む?むむむ?男同士?
「…それって、たしか『風と樹の何やら』…とかいう?」
これは、いつの間にか脳内に刻まれていた、あの膨大な性知識からきた言葉ではない。
いつぞや、参考書を買いに立ち寄った市内の書店で、コミックの棚にあった一連のマンガ本の中で、たまたま目を引いた作品のタイトルだったのだ。
題名は…たしか「風と樹の詩」だったか。
19世紀のフランスの学校の男子寄宿舎の中で繰り広げられる、年頃の美少年たちの耽美な愛の物語。
ギリシャ彫刻の様な美しい少年の描かれた表紙に関心がわいて、手にしてページをめくった途端。
…私は慌てて本を閉じて、元の棚に戻してしまったのだった。
…見てはいけない物を見てしまった衝撃。
後で、何故か少女マンガにも造詣の深い志賀君にその時の話をしてみたら、思いっきり笑われてしまったのだが。いわく、
「文ちゃん先輩には、ちょっと刺激が強すぎますよ、アレは」
との事だった。何故かは分からないが、少し悔しかったのを覚えている。
しかし今の私ならば。脳内に隠されていたらしい、あの新たな「知識」を得た今の私ならば、多少は免疫もできたはずだけれど。
…塚村嬢は、ああいうのが好みなのだろうか?
「それは『少年愛』という物で、私の嗜好とは全く異なるものにすぎない」
「塚村さんの…嗜好?」
「私が心ときめくのは、むしろ大相撲の力士。もしくはプロレスラークラス」
「……は?」
お相撲?ぷ…ぷろれす…?
「長州と藤波の抗争には『愛』がある。美しい。まっちょ・いず・びゅーりほー」
…何が何だか、まるで意味が分からなかった。
今度は私が呆然とする番だったらしい。
「会長殿。愛の形は千差万別、多種多様。奥が深い」
「…そ…そうなの?」
私の脳内にある「知識」にも、流石におすもうさんとかプロレスラーさんたちの「愛の形」とやらは介在していなかったのだった。
「まっちょ・いず・びゅーりほー。大事な事なので二回言う。…では」
徹頭徹尾、表情ひとつ変える事無く、塚村嬢は去っていった。
…また負けた。
これで塚村嬢とは二戦二敗、黒星ふたつの白星なし。
塚村さんの言葉がよほどインパクトあったのか、私の脳内の対戦成績も大銀杏形式になってしまったのだった。
…何だか、そこはかとない敗北感を覚えた。
奇妙な悔しさに身を焦がしながら廊下を歩いていると、真子の後姿が目についた。
…ふむ?
私は彼女に気づかれない様に背後に忍び寄ると、一気呵成に彼女のスカートをめくってみた。
「…ぴゃっ!?」
「…苺模様か」
「かっかかかかかかかかいちょぉぉぉぉ…!?」
「もう少し大人っぽいのを履いた方がいいな。私としては黒のレースを推奨するけれど」
「ごごごごごごごご」
「…ご?何の事?」
「かっ、かいちょ、ご乱心っ~~~~!!!!」
顔を真っ赤にして、真子はスカートを押さえながら一目散に走り去ったのだった。
…真子ったら、よく走る子ねぇ、まったく。




