15 疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドラング)
通学路を歩いている間、私は色々な事を考えていた。
ジクムント=フロイトによれば、「夢」は人間の願望の現れであり、夢には必ず何らかの「意味」が込められているのだという。
末期ガンになって痩せ衰えても「煙草の味が分からなくなる」と鎮痛剤の投与を拒絶し続けた偏屈者の老人の言う事を、どこまで信用してよい物かとも思うのだが。
夢、といえば。
私たちの存在しているこのセカイは、「御主様」鮎子おねえちゃんと存在を等しくするカミサマが見ている夢の中にあるのだという。
こちらの方は信用するしかない。それが「鬼橋 文」たるこの私の存在意義に直接関わってくる命題だからだ。
それにしても、だ。そのヘヴィスモーカーのユダヤ人の言葉に照らし合わせれば合わせるほど、昨夜の私の淫夢が気にかかる。
…「アレ」が、私の願望だとでもいうのか?あの様な破廉恥極まりない夢が?
あああ、何という事だ。
葉巻を持った禿頭の老人の、どことなく気難しそうな顔が目に浮かぶ。
彼の言う「精神分析」、あるいは「夢判断」では、一体どんな評価が下されるのか。
自らを身動き取れない人形に転化させてしまったのは「拘束願望」、志賀君のモチーフを持った吟遊詩人に…その…裸で迫ったのは独占欲の現れだろうか。
いや、待てよ?
“「私」は、彼の「所有物」となったのだ”
夢の中で人形となった「私」が、そんな事を考えていたのを覚えているぞ?
むむ…どうやら私は、志賀君に対して、独占欲と同時に従属的な願望も抱いているらしい。
その部分に関しては否定しない。
こんな状態になる以前から、それは思い当たる事も多々あったからだ。
それは私たちに限らず、「すてでぃ」な間の二人にとっては当たり前の事…だと思う。
…自信はないが。
それにしても「独占欲と従属願望」、か。
彼は私の物。そして私は彼の物。
まるでシェークスピアの「尺には尺を」の台詞の様だな。正確には「私の物はお前の物。お前の物は私の物」だが。
ああ、そういえばあの物語は、性道徳に厳しいウィーンの公爵代行を罠にはめる内容だったな。
…「性道徳」かあ。
それはつい最近まで、この私にはまるで縁のなかった単語だったが。
…まったく、自らを人形の中に押し込めてまで、私は何を考えていたのか。
…む?「人形」?「人形」か。
ふと、昨日、悠久堂の陳列棚に置いてあったフランス人形の事を思い出した。
…そういえば、夢の中での「私」は、あのフランス人形の様な姿をしていた気がする。
悠久堂の中で感じた「視線」は何だったのだろう。
魔導師の端くれの私だが、あの人形からは魔力めいた物は感じ取れなかった。
何の変哲もない、古めかしいだけの人形だった…はずだ。
とはいえ、気になるのも事実。もう一度悠久堂に入って、あの人形を調べてみようか。
あの人形には、「何か」がある気がする。
「何か」「何か」「何か」。…私の中に潜む「何か」。
私を「私」でなくさせる「何か」。
分からない事ばかりだ。
…一番分からないのは、この私自身だが。
あんな淫夢を見させたのも、私の中に潜む「何か」のせいなのだろうか…
それとも単なる、抑えきれない欲求のなせる業なのだろうか。
「かーいちょ」
びくん!
「はぁ…んっ…」
突然、背筋に痺れる様な快感を覚えて、私は自分でも驚くくらい艶めかしい声を挙げてしまった。
…私の中で、何かが目覚めた。
「あ、あのその…ごっ、ごめんなさいっ!」
案の定、下手人は真子だった。彼女もこの展開は予想外だったと見えて、あからさまに動揺しているのが見てとれた。彼女は私の背中を指でなぞったままの姿勢で硬直していた。
「まっ、まさかかいちょが、ここまで敏感だったとは…」
「…い…いや、ただ単純に…不意打ちにお…驚いた…だけ…」
全身の血管が一気に膨らんだかの様に身体が熱くなった。息も荒い。
そんな私の痴態を目の当たりにした、真子の顔も赤くなっていた。
「こほん。や…やあ、お…おはよう。きょ、今日もいい天気になりそうね」
「あ!そ…そうだと思いますです…」
照れ隠しの挨拶も、どこかぎこちない。
私たちはそれっきり会話もなく、そのまま学校に続く歩道を歩いて行った。
校門を抜けると、真子が重い口を開いた。
「あ…あの、やっぱ今朝も校内清掃するんですか?」
「え?あ、ああ、もちろんするわよ?何でそんな事を聞くのかしら」
「え?」
真子はきょとんとした顔になった。
「どうしたの?そんな顔をしちゃって」
「あ…あの、かいちょ、ですよね?別の人じゃないですよね?」
「くす。何を馬鹿な事を言ってるの。私は私ですよ。あなたもよく知っている鬼橋 文」
私は微笑んだ。真子の顔がまた赤くなる。面白い子。
「だ…だって、いつものかいちょの口調じゃないですし、それに……」
最後の方は小声で、よく聞き取れなかった。
「それに?何かしら。くすくす」
真子の顔がさらに赤くなった。私はそんな彼女の仕草がおかしくなって、彼女を少しからかってみたくなった。
私は、真子の赤い頬に優しく手を添えて、囁く様にこう言った。
「…ね?隠してないで、教えてちょうだぁい?」
ぴくん、と軽く痙攣する真子。うふ。可愛い子。
「…ね?」
「あの…」
「なぁに?」
「今日のかいちょ、何だか色っぽいです…」
「あら嬉しい。いい子ね」
はむっ。
私は真子の耳に、軽く甘噛みしてあげた。
「ふにゃあぁぁ…」
あら、真子ったら腰が砕けちゃったみたい。うふふ。ちょっと刺激が強かったかな?
ちょうどその時、いつもの様に志賀君の「自由の翼号」がやってきた。何というタイミングなのかしら。
ギター・ケースを背負った志賀君は、私たちの姿を見かけると、自転車を止めた。
「あ、お…おはようございます文ちゃん先輩。き…昨日はどうも…でした」
彼の顔も、心なしか赤い。昨日の事を思い出してくれているのだろうか。
「うふふ。どういたしまして。美味しかったですよ?パスタも…キミのほっぺも」
「あ…そ…そうでしたか。恐れ入ります」
照れている彼の顔が、とても可愛く思えた。
「そ…それより横の水嶋さん、どうしちゃったんですか?へたり込んでますけど」
「うふ。気にしないでいいの。それよりもぉ…」
「は…はい?」
「自転車置いてきて、はやくお掃除しましょうよぉ…ね?」
「あ…はい」
駐輪場まで自転車を押して行く志賀君の後姿を目で追いながら、私はとても満ち足りた気分になった。さっきまでの不安や悩みが、嘘の様に思えてさえいた。
あはは。何だ、こうすればよかったんだ。簡単な事じゃない。
あの人形の事など、もうどうでもよかった。すべては私の気の迷い。気にする必要もない。
自転車を置いた志賀君が戻ってきた。
私は彼の元に駆け寄って、その逞しい腕に抱きついた。
「え?ちょ、ちょっと文ちゃん先輩?」
「なぁに?」
「…最近の文ちゃん先輩、ちょっとヘンですよ」
「そうかな?そんな事ないんじゃない」
「…そうでしょうか」
「うん。気のせい気のせい。それよりお掃除、しちゃいましょ?」
「…そこでへたり込んだままの水嶋さん、どうします?」
見ると、真子はまだ、ぽーっとしたままへたり込んでいたのだった。
「あ、そうね。…さ、真子、お掃除はじめますよ?」
「…あ。はぁい…」
彼女はよろよろと起き上ったが、まだ意識は明後日の方に行ったままらしい。
私たちは、掃除用具を取りに、北側校舎の片隅にある物置小屋に向かった。
ポケットから鍵を取り出して、鍵穴に差し込んでみたのだが、どういう訳か、今日はなかなかうまく入ってくれない。
「あれ?どうしたんですか?」
「うん…鍵がね、なかなか奥まで入らないの」
「ちょっと錆びちゃってたりするんですかねえ…」
「そうかなぁ…この鍵穴、処女って訳でもないのにな。この鍵、何度も銜え込んでるから、穴との相性もいいはずなんだけど」
「…!!」
私が何気なく口にした例え話に、志賀君と真子の二人は硬直した。
「…あ…文ちゃん先輩…?」
「か…かいちょ…?」
何だというのだろう。私は何か変な事でも言ったのだろうか。
その時、物置の扉ががら、と開いて、その隙間から、私の前に竹箒が突き出された。
「はいこれ。使うでしょ?」
竹箒を持っていたのは、鮎子おねえちゃんだった。
「…あ…りがと、おねえちゃん」
「どういたしまして」
鮎子おねえちゃんは、なぜか不機嫌そうな顔をしたままで、私に箒を手渡すと、そのまま歩いて校舎の方に歩いて行ってしまった。
「…ね、ねえ志賀くん、何で剣城先生、あんな所にいたんだろう?」
「…さぁねえ。でも、鮎子先生はよくあそこにいるよ。僕は何度か見てる」
「そ…そうなの?何で?」
「そんなん知らないよぉ。鮎子先生はあそこが好きなんじゃないかな」
私の後ろでは、志賀君と真子が、小声でそんな会話を交わしていた。
その後、私たちは日課の校庭清掃に取り掛かった。
その間ずっと、私は志賀君の傍にいた。深い理由はない。ただ彼の傍にいたかっただけなのだ。
彼が竹箒でゴミを掃き集め、私が塵取りでそれを集める。集めたゴミは真子がビニール袋に詰め込んでゴミの集積場所に運んでゆく。それは、いつもの分担と何ら変わる所はない。
ただ、今日はいつもとはどこか雰囲気が違った。
それは、私の気分に依る所が大きいのだと思う。
竹箒を手にしている志賀君の姿が、とても逞しく思えたので、私の目はずっと彼の姿を追い続けていた。
「…あの、文ちゃん先輩?」
「なぁに?」
彼に名前を呼ばれる事がとても嬉しくて、返事もつい甘い声になってしまう。
「…やっぱり、今日の文ちゃん先輩、ちょっとヘンです」
「あら、そう?私のどこがヘンなのぉ?」
「いつもの文ちゃん先輩の口調じゃないです。…コケティッシュというか」
「あ、何だそんな事?うふふ。そういう気分なの、今日は」
「そうですか」
志賀君は、どこか遠くを見る様な目で頷くと、それっきり黙って作業を再開した。
あれ?機嫌を損ねちゃったのかな?ちょっと気まずいな。何か、お話を続けられる様な話題はなかったかな…あ、そうだ。
「ね、志賀君」
「何ですか」
「もうすぐ学年末試験じゃない?お勉強の方は進んでる?」
「あ…えっと…」
ふふ。流石にこの話題は気になったと見えて、彼はちょっと困った様な顔になった。
「くす。どうせまたギターにかまけてばかりで進んでない、のでしょう?」
「ええ…まあ」
「でも大丈夫。前にも言ったでしょう?2学期の期末試験の時に」
「あ…ああ、あの時もお世話になりました。…あの時はご期待に添えなくてすみません」
「いいのいいの。で、あの時私は言ったわよね『次こそキミを男にしてあげる』って」
「あ…ああ、はい…」
志賀君の顔がまた赤くなった。ふふ。志賀君たら、一体どんな想像をしているのだろう。
「くす。また一緒にお勉強しましょうね」
「あ、はい」
私が口にしているのが、勉強の事なのだと分かった彼は、心なしかほっとしている様にも見えた。
「私が、キミをきっと男にしてあ・げ・る。うふふふ」
私そう言いながら、彼の手にしている竹箒の竿を握って、ゆっくりと上下に扱いてみせた。
「きっと男に…ね?」
「…!?」
呆気にとられる志賀君。くす。どういう意味なのか分かっちゃったかな?
「あ…あの、文ちゃん先輩!」
「うふふ。そろそろお掃除も片が付きそうね。今日はここまでにしましょ」
「あ…ああ、はい…」
「いつもありがと。これは私からのご褒美」
私は彼の頬にキスをした。
ちょっと離れた場所では、一部始終を見ていたであろう真子が、茫然としてゴミ袋を落としてしまっていた。
「くす。じゃあ志賀君、今度は放課後の見回りもよろしくね!」
「あ…はぁ…」
竹箒を握ったまま立ちつくす彼の、可愛らしい姿を背に、私はその場から走り去った。
何と言う事なのだろう。すごく満ち足りた気分。
どこでどうなったのか分からないが、昨日までの、いや、ついさっきまでの暗澹たる気持ちは、どこかに吹き飛んでしまった様だ。
しかし、それでいい。
大体、今までの私の方がどうかしていたのだ。
無駄に悲観主義で、恋愛に対してはひたすら臆病。
17歳の女子高生としては、少し不健全すぎないだろうか?
うん。そうだ。それにこの私は、プロイセンの辣腕宰相と同じく「鉄血宰相」とまで呼ばれた女なのだ。もう少し…いや、もっと果敢に突き進んでもよいではないか?
そうだ。「疾風怒濤」。
激しい嵐と荒れ狂う波の如く。
その名に相応しく、これからは恋愛にも「疾風怒濤」の勢いで突き進むのだ。
新たなる「疾風怒濤の鉄血宰相」の物語がはじまるのだ。
くすくす…くすくす…くすくすくす…あはははは。




