14 ア・メモリー・アイ・ハヴ
一夜が明けた。
昨夜の夢は、一体どうした事だろうか。
私とした事が、あの様な淫夢を見てしまうとは。
生まれの事情もあって、他人よりはかなり淡白だとはいえ、私にだってそれなりの欲求がある事は否定しない。
否定はしないが不審に思う事はある。
なぜ今になって突然?という疑問。
この疑問を考察するには、私の半生を振り返る必要がある。
志賀君とお付き合いをはじめてからの私は、それまで疎遠だった類の感情や意識も身近に感じる様になったつもりだ。恋愛感情はもちろん、人間関係の機微というか、他人との距離を意識して敬遠する事も少なくなった。
それまでの私は、他人との距離を縮めようという意識を持たなかった。少なくとも、その努力を怠っていた。
別に「寄らば斬るぞ」的な負のオーラは出していなかったと思うが、私は子供の頃から、何となく他人を遠ざけていた。
それは、先にも触れたが、御主様の守護者「鬼橋 文」として生まれた事も大きかったと思う。御主様…鮎子おねえちゃんのお傍に、生涯付き従う者。私はこの「出自」に縛られているのだ。
しかし、私はそれを否定しない。鮎子おねえちゃんは私にとって、肉親以上に身近で大切な「魂の絆」で結ばれている存在なのだ。
この世に生まれて17年。そしておねえちゃんと出会ってからの11年間、私の人生の第一義は「鬼橋 文として生きる事」だった。誰に強要された訳でもない。それは私自身が選んだ生き方だった。
代々、能力と使命を魂に刻んで生まれる「鬼橋 文」だが、それはあくまでも「素体」に過ぎない。「魔導師」として大成するためには、当然の事ながらそれなりの努力と精進は必要なのだ。「魔導師」としての知識は、生まれながらに私の脳内に刻まれているはずなのだが、それだけでは単なる「テキスト」としての価値しかない。
図書館にある書物も、読まなければその情報を活かせないのと同じ事だ。情報は、それを活用できるだけの技量があってはじめて有効になる。
私の魔導師としての「修行」の第一歩は、この己が脳内にある情報の「意味」を理解する事だった。
古式ゆかしい魔法の数々は、ラテン語やギリシャ語、それに英語でも現代では失われてしまった様な単語や文体、文法で構成されている事が多い。
何も知らなかった子供の頃は、我が脳内にあるこの「外国語」の扱いにかなり苦労させられたものだ。
分かりそうなのに、まるで意味が分からない言葉の数々。
このもどかしさを、ご理解いただけるだろうか?
かつては確かに読めた覚えがあるのに、いざその文字を見ると、単なる「線で結ばれたカタチ」にしか見えなかったこのもどかしさを。
…それも仕方のない事ではあるのだが。
これらの文字を読み、理解できたのは先代までの「鬼橋 文」。
現在の後継者である私には、まだそれを理解できるだけの「基本プログラム」が組み込まれていなかったのだから。
だから私は、必死になってこれらの言葉を勉強した。
その甲斐もあって、私は5歳で英語、7歳でギリシャ語を覚える事ができた。特に6歳の夏、鮎子おねえちゃんと出会ってからは、己が使命を意識できたおかげで勉学も捗る様になったのだ。
「得体のしれない線の羅列」が、次第に「意味を持つ文字」に感じられる様になってゆく喜び。
「意味を持つ文字」同士を紡ぎ結び合わせて、新たな「力ある言葉」を生む。
魔法の基本はここにある。
私はこの快楽に夢中になった。
代々の「鬼橋 文」は元々、「文字」を紡ぎ繋ぎ合わせて魔法を生み出すのを得意としてきたが、鮎子おねえちゃんに言わせると、私は特にその傾向が強いそうだ。
この知的な快楽で欲求を満たしてしまった私だから、いわゆる「肉欲」という方面には特別な関心はなかった。
「フィジカル」よりもメンタル、スピリチュアル。
それにそもそも、「鬼橋 文」という存在は、決定的な肉体の「欠落」があって…いや、この話は、今となってはあまり意識したくない。
ともあれ、志賀君と出会うまでの私は、そうした生き方を選んできたのだ。
で、その志賀君。
色々あって彼と「ステディ」な関係となって以来、この私の生き方…というか人生観は大きく変化を遂げてしまった。
それまであまり関心のなかった「人との距離」という物も意識する様になった。
志賀君…彼が何を考えているのか、いつも気になる様になった。
彼に気に入られようと、身だしなみや言葉遣いにも気を配ってみた。
彼との出会いは、それまで限定されて閉塞したまま、停滞していた私の「セカイ」を、一気に広げてくれたのだ。
生徒会で行動を共にする事の多い兼子や真子は、そんな私の「変化」を肯定的に受け入れてくれたみたいだが。
二人のいわく、「可愛くなった」と。
以前の私ならば、馬鹿にされたと感じただろう。しかし今は、そう言われるのが単純に嬉しく思う。
この心境の変化こそが、私の大きな変化だと思う。
普通の17歳の少女ならば、ごく当たり前の感情なのかもしれないが、この変化は「鬼橋 文」としてのアイデンティティにも大きな影響を与えた事は間違いなかった。
唯一心配だったのが、「鬼橋 文」がお仕えする御主様、鮎子おねえちゃんがどう思うか?という点だった。お役目を放棄する様な事になるのでは?私はこんな事にうつつを抜かしていてよいのか?
先の事件で、倉澤さんの死に対する自責の念もあった。
そう思った私は、ある日、意を決しておねえちゃんに直接問うてみた事があった。
お役目に生きるか、恋を取るか。
悩み抜いた末にお尋ねした私に、おねえちゃんは、
「ま、どうでもいーんじゃない?」
と、いともあっさり答えたのだった。
「――わたしとしてはね」、とおねえちゃんは切り出した。
「わたしとしてはね、どの『文ちゃん』にも幸せになってもらいたかったんだよ」
どこか遠くを見る様な目をして、おねえちゃんはそう言ったのだった。
「お役目なんてのはね、本当はどうでもよかったんだ。最初の『文ちゃん』が私に眷属の誓いをしてくれたのは嬉しかったよ?それまで一人きりだった私にできた、本当に身近な子だったのだもの。でもね」
「…でも?」
「最初の文ちゃん、次の文ちゃん。その次の文ちゃんも、みーんな私の為に若い命を投げ出しちゃって…みーんなみんな、とっても一途で真面目な子ばかりだったから」
「……」
「その度にわたしは思ったんだ。『もうちょっと自分を大切にして』ってね。だから前の文ちゃんが亡くなった時、わたしは日本を離れたんだ。わたしがいるから文ちゃんが死んじゃうんだ…って思って」
「おねえちゃんが渡米した時の事ですよね」
「そ。それから何年かして、鬼橋の本家から、次の文ちゃんと対面してほしいって連絡を受けた時は、正直、『ああ、またか』って思ったんだよ」
「それが…私だったと…」
「うん。初めて今の文ちゃん…あなたと会った時、わたしは思ったんだ。『今度の文ちゃんは大切にしてあげよう。も、ぐうの音も出ないくらいに可愛がっちゃおう』ってね」
「…だからといって、いきなりキスをしまくったのはどうかと思います。児童虐待です。あと日本語の使い方がおかしいです」
「あはは。あの時はごめんね。アメリカ暮らしが長かったからねー」
「理由になりません」
「そう言わないでよ。とにかく、わたしはこの子の『おねえちゃん』になってあげようって、あの時思った。それは今でも変わらないよ」
「…うん」
「『御主』なんて面倒なモノじゃなくて、わたしはあなたの『おねえちゃん』でいいの」
「…でも…お役目が…」
「おねえちゃんはね、大切な『妹』に彼氏さんができたのを、たいそう喜んでます」
おねえちゃんは屈託なく笑った。
「…でも、志賀君をたきつけたのは、おねえちゃんだったでしょ?」
「…もしかして、志賀君じゃ不満だった?」
「そっ、そんな事は!」
あははははー、と鮎子おねえちゃんは笑った。
この笑顔である。おねえちゃんにこの笑顔をされたら、誰も逆らえない。
「ね?わたしの見立てた恋人さんは、文ちゃんにも気に入ってもらえたでしょ?おねえちゃんは、妹の事ならなーんでも分かってるんだから」
…何となく悔しさもあったが、私に反論できようはずもなかった。
ともあれ、こうして志賀君と私は、私が一番敬愛する「おねえちゃん」にも晴れて公認を戴いたカップルになったのだ。
それからというもの、彼と私との距離はどんどん近づいていった。
彼の献身的な校内奉仕作業の事もあり、私たちの仲は、生徒間はおろか先生方の間でさえ好意的に見ていただけるようになっていたのだった。
出会いこそ…その…キス…という、高校生の男女交際としてはいささか度を越した物だったが(当然、それは二人だけの秘密である)、それ以降、彼とは実にプラトニックな関係を続けてきたはずだったのだが。
…ここ数日、どうもおかしな気配になってきている。
彼と、事実上はじめてのケンカをしたのは…まあ、男と女の間にはよくある事なのだろうが、問題はそれではなく。
…問題があるとすれば、この私自身。
…私はこんなにも淫乱だったのだろうか。
こんなにも嫌らしい妄想をする様な女だったのか。
どんな問題にもまっすぐ向かい合うのが私のモットーなのだが、この問題についてはどうも躊躇してしまう。
…正直に言おう。
この…ええと、何というか…「性的な方面」について、私はまったくの無防備なのだ。
免疫がないと言ってもいい。
生まれて17年間、私はそちら方面にはまるで縁がなかった。
魔導師たらんと、脇目もふらずに勉学に勤しんできた事もある。
普通、こういった方面の知識は、耳年増な友人からも得られるそうだが、私にはそんな有益な情報をもたらしてくれる様な「友人」もいなかったし。
…ああ、もしかしたら、そんな無防備な状態のままで、いきなり「彼氏さん」ができてしまったものだから、私の妄想が一気に肥大してしまったのだろうか?
急激に肥大してしまった欲求を満足させるための妄想、なのだろうか。
む…むむむむむ?
一見、説得力ありそうな仮説ではあるが、同時に恐ろしくもなる。
昨夜の淫夢だけではないのだ。ここ最近の私はおかしい。
自分でも意識しないうちに、突拍子もない行動に出てしまう。
志賀君の腕にしがみついて舐めまわしたり、頬に残ったソースも舐めてしまった。
何という破廉恥な女なのだ、私は。
きっかけは…想像がつく。
その…何だ、私の肥大化した妄想に火をつけたのは、おそらくは鮎子おねえちゃんの言ったあの言葉。
『あなた、志賀くんに抱かれちゃいなさい』
…うん。これだろう。
鮎子おねえちゃんは、私に「彼氏さん」をあてがっただけでなく、次のステップに進ませようとしているのかもしれない。
ただでさえ暗示にかかりやすいこの私なのだ。おねえちゃんのあの言葉が、私の意識に大きな影響を及ぼしているのだとしても不思議ではない。
…だとしたら、いくら何でも至極迷惑な話である。
自分の勤務先の生徒を不純異性交遊させようとする養護教諭はいかがなものか。
それに…これって「妹」に対する過保護ではないでしょうか?おねえちゃん。
よぅし。今日登校したら、おねえちゃんにひと言、抗議しておこうか。
ささやかなる決意を胸に、私はベッドから這い出して着替え―――
パジャマのボタンを外そうとして思い出した。
…そういえば、私はいつの間に着替えたのだろう。
まったく記憶がない。
それに…帰宅してそのまま寝てしまったのだとしたら、私は昨夜も夕食を取らなかったはずだ。成長が…特に一部分の発育が遅れているとはいえ、17歳の育ち盛りの娘が、一食抜けばそれなりの空腹感があって然るべきなのだが…どうやらそういった感覚もない。
むしろ、食べてすぐ寝てしまった時の、あの胃もたれの様な感覚がある…?
うん。おそらくは昨夜、私はきちんと夕食を取っているのだろう。
…私の意識しないうちに。
私の記憶のない所で、「私」が行動している…?
ああそうだ。そういえば、志賀君にはたらいてしまった一連の不埒な行為の時だって…あれも私が意識したものではなかった…はず?
決まって破廉恥な行為の跡で、まともな意識が戻っていた。
いやいや。そうではないぞ?
恥ずべき事だが、私はあの一連の不貞行為だって覚えている。
私が彼に何をしたのか、はっきりと覚えているのだ。
ただ…「行為」に及ぶまでは、それがごく当たり前、自然な事に思えてしまっただけなのだ。破廉恥な行為が日常の中の、何ら変哲もない出来事の様に思えてしまった…だけ。
私は着替え終わると、キッチンに向かった。
あ、香ばしい匂いがする。今朝はトーストみたいだ。
「あ、文ちゃんおはよー」
私の気配を察したのか、振り向きもせずママが挨拶してきた。
この辺りはさすが鬼橋本家の出だけの事はある。聞けば、ママが私と同じくらいの頃には、先代の鬼橋 文と共に御主様…鮎子おねえちゃんにお仕えしていたそうなのだが。
しかもおねえちゃんいわく、ママには先代も逆らえなかったそうなのだが。
…現在のおっとりしている姿からは想像もできない。というか信じられない。
「あ、ママ。おはようございます」
「昨夜のおうどん、ちょっとお塩が強かったみたいね。喉、乾かなかった?」
…え?
「文ちゃん、美味しい美味しいって食べてくれたけど、実はあれ、打つ時に塩加減をちょっと間違えちゃったのよね」
…やはり。やはり私は夕食を取っていたのだ。
私でない「私」。
「何者」かが、私の中に棲みついているのだ。




